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Concert  コンサート情報

レオン・フライシャー

2007年115日(月) 19:00開演

全席指定 6,500

レオン・フライシャー(ピアノ)

レオン・フライシャーは、演奏活動の絶頂期にあった30代にジストニアという病気で右手が使えなくなり、事実上の引退を余儀なくされます。その後、リハビ リを続けながらわずかな左手による演奏や指揮、教育活動に専念。近年の治療で病を克服し、2004年に再び両手での録音を行うまでに回復しました。06年 6月、アシュケナージ指揮N響と共演。この日3000席を超えるホールを森閑とさせたのは、アンコールに応えて独奏したバッハのコラール「羊たちは安らか に草を喰み」。その美しい音楽は、隣人の心にも響いているのが伝わってくるように聴く人の心のひとつひとつに語りかけました。40年間ピアニストとしての キャリアを失いながら、なお静かにピアノに向かっている彼の70数年の時の流れに想いを馳せずにいられない、それが今のフライシャーの音楽なのです。

 

MESSAGE

 

40年の空白を経て、ふたたび東京でリサイタルを行えることは、この上ない喜びです。東京の方々はとても情熱的、また 知的で、真の評価をしてくださるオーディエンスだと記憶していますが、その皆様と音楽のもつ相互理解の精神を分かち合うことを今から楽しみにしています。 40年ぶりに東京で、しかも両手を使って演奏できるというのは、とても名誉なことだと感じております。

――2006年11月 レオン・フライシャー

プログラム

J.S. バッハ:「カンタータ 第208番」より 羊たちは安らかに草を喰み
D. コストン(1940~):メッセージ I (2002)
L. カークナー(1919~):左手のための (1995)
ストラヴィンスキー:イ調のセレナード
ブラームス:左手のための「シャコンヌ」
(J.S. バッハ:無伴奏ヴァイオリンパルティータ 第2番より

********** 休憩 **********

シューベルト:ピアノ・ソナタ 第21番 変ロ長調 D.960 (遺作)

プロフィール

レオン・フライシャー(ピアノ)

ピアニスト、指揮者、そして指導者として著名なレオン・フライシャーは、舞台演奏のキャリアが60年を超える。出生地の サンフランシスコで4歳にしてピアノのレッスンを始め、8歳で最初のリサイタルを開催。翌年、偉大なるドイツ人ピアニスト、アルトゥール・シュナーベルの 下で学び始め、1944年、16歳でニューヨーク・フィルハーモニックと共演を果たし、52年、歴代初のアメリカ人としてエリザベート王妃国際コンクール にて優勝する。フライシャーのキャリアはその後12年間上昇し続け、全ての主要なオーケストラ、指揮者と世界中で共演し、あらゆる場所でリサイタルを行 い、ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団とベートーヴェン、ブラームス、ラフマニノフのピアノ協奏曲など試金石となるレコーディングを多数行う。だが65年、右手の2本の指が突然動かなくなってしまう。様々な治療法を試すも、一時的にしか回復せず、若干37歳にして引退を余儀なくされる。このこ とは彼のキャリアにおいて決定的な瞬間であったが、最近の治療により、人生の半分以上を蝕んだ局所的筋失調として知られる神経性疾患を取り除いたのであ る。この数年、頻繁にではないが再び両手で演奏を行っており、40年ぶりに両手での演奏による「Two Hands」という音楽自伝的レコーディングを作成。バッハ、スカルラッティ、ショパン、ドビュッシーの他、シューベルトの最後のピアノ・ソナタが収録さ れている(発売:ヴァンガード・クラシック)。ピアニストとしてのキャリアを突然閉ざされてからの40年間、フライシャーは指揮者と指導者という2つの平行したキャリアを歩み、同時に左手ピアノのた めの広範囲なレパートリーを学ぶ。67年に指揮を始めたが、両手で再び演奏することを決してあきらめなかった。1967年にケネディ・センターでシアター・チェンバー・プレイヤーズを設立、70年にアナポリス交響楽団の音楽監督に就任したことにより、指揮者とし ての評価を素早く獲得する。同年、モーストリー・モーツァルト・フェスティバルでニューヨークでの指揮者デビューを果たし、73年にはボルティモア交響楽 団の副指揮者となる。これまでにクリーヴランド管弦楽団、ボストン交響楽団、シカゴ交響楽団、サンフランシスコ交響楽団、モントリオール交響楽団、デトロ イト交響楽団や、その他多数のオーケストラと共演している。新日本フィルハーモニー交響楽団とは首席客演指揮者として各シーズン中に様々なコンサートで共 演したこともあり、また、ヨーロッパ室内管弦楽団、グスタフ・マーラー・チェンバー・オーケストラとも定期的に公演を行う。後進の指導もフライシャーの人生において重要な位置を占めている。非常に崇拝されている教師であり、59年よりピーボディ音楽院にて栄誉教授(Andrew W. Mellon Chair)として務めるほか、フィラデルフィアのカーティス音楽院、トロントの王立音楽院の教授でもある。86年から97年はタングルウッド音楽セン ターの音楽監督として活躍。アスペン、ルツェルン、ラヴィニア、ヴェルビエ、その他の音楽祭では世界中から集まった生徒たちと交流を行っている。また、ザ ルツブルク・モーツァルテウム、パリ音楽院、サンジャンドリュッツのラヴェル・アカデミー、マドリードのソフィア王妃学院、エルサレムのミシュケノット、 ニューヨークのメトロポリタン美術館でマスタークラスを行っている。「突然、私の人生で最も大事なことは両手で演奏することではないと気付きました」と、ベートーヴェンの5代目の弟子であるフライシャーは言う。39年に ドイツからアメリカに渡った彼の指導者シュナーベルは、ポーランドの巨匠ピアニストであり指導者であったテオドル・レシェティツキの弟子であり、レシェティツキはベートーヴェンに師事したチェルニーの弟子である。「テクニックではなく情熱が大切だということが、私がシュナーベルから学んだことです」とフ ライシャーは語っている。