以前ピアニストのフランチェスコ・トリスターノのインタビュー撮影をした時、あいまにこんなことをたずねてみました。
「レニー・トリスターノ、知ってる?」
これは単なるトリスターノつながりの雑談で、「誰、それ?」となってしまう可能性もあったのですが、一方で僕には、クラシック以外の音楽にも造詣が深く、独自の新しい表現を追求している彼なら、きっとその名を知っているはず、という確信もありました。
果たしてフランチェスコは、それまでのクールな表情から一転して破顔一笑「もちろん知ってるさ!」と答えてくれました。「残念ながら血のつながりはないけどね」と冗談交じりで。
レニー・トリスターノは1940年代半ばから60年代半ばにかけて活躍したジャズ・ピアニストです。彼が故郷のシカゴからニューヨークに出てきてプロ活動をはじめた頃、ジャズ・シーンではチャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーがビバップ・ムーヴメントを巻き起こしていました。もちろんトリスターノもその潮流の中に身を置き、彼らから少なからぬ影響を被ったのですが(とりわけパーカーには崇拝に近い思いを抱いていたようです)、にもかかわらず彼の音楽はビバップのスタイルとはいささかニュアンスを異にしていました。目が不自由だったことも関係しているのかもしれませんが、そのアドリブ・ラインは振幅や躍動感に乏しく、またジャズに必須と思われていたブルース・フィーリングも希薄――ひと言でいえば「クール」だったのです。しかもそのクールさは、やはりクール・ジャズと呼ばれたスタン・ゲッツやジョージ・シアリングのそれと違って極端なストイシズムを伴っていたため、一般のジャズ・ファンにはあまり受け入れられませんでした。
そんなトリスターノの音楽は、しかし一方で一部のミュージシャンを激しく惹きつけました。リー・コニッツやウォーン・マシュー、ビリー・バウアーといった人たちは彼の直弟子となり「トリスターノ派」を形成、ビバップに対抗する新しいジャズのスタイルを提唱します。また直接的な師弟関係にはありませんでしたが、ビル・エヴァンスやハービー・ハンコックなどもトリスターノから大きな影響を受け、そのスタイルを自分の演奏に反映させました。
そういう優秀な弟子や、強い影響力を持ったにもかかわらず、トリスターノは共演者やジャズ界の現状に対し、常に不満を抱いていました。一切の妥協を許さない姿勢は、信奉者であったコニッツやマシューをもいつしか遠ざけ、結局彼は60年代半ば以降公の場での活動やレコーディングをほぼ停止。78年に世を去るまで、自宅のスタジオに引きこもり時折やってくる生徒にレッスンをつけるという隠遁生活を送ることになるのです。
今回ご紹介する「鬼才トリスターノ」は、そんなトリスターノのジャズ美学が極点に達した感のあるアルバムです。
先に述べたように彼は、共演者に対して常に不満を抱いていました。その不満とは、トリスターノの独特なフレージング(半端な箇所にフレーズのアクセントを置き、捻れ感を生み出す)をうまく咀嚼できず、リズム・セクションがいつもズレてしまうということでした。そこで彼は本作において、ベースやドラムを先に録音し、あとからピアノをかぶせるという多重録音を敢行したのです。
今でこそ多重録音なんてごく普通のことですが、ライヴ感や一回性が第一義とされていた当時のジャズ界において、それは冒涜とも取られかねない行為でした。しかしトリスターノにとって、めざす表現を達成するためなら犯してはならない禁などありませんでした。そしてその結果、そこには前代未聞の音楽が誕生することとなったのです。尋常ならざる緊迫感に包まれた《ライン・アップ》。憂鬱と倦怠が支配する《レクイエム》(これはパーカーの訃報に接して録音されたトラックです)。ピアノ・パートを何度もオーヴァー・ダヴィングして異様な音空間を現出させた《ターキッシュ・マンボ》。……今から60年も前に録音されたにもかかわらず、それらの音楽は今きいてもまったく古びた感じを与えません。それどころかここには、現代の耳をもってしても解き明かすことのできない謎と、刺激的な示唆が隠されているように僕には感じられるのです。
なお本作の後半には、かつての愛弟子だったコニッツとの共演した比較的オーソドックスな演奏も収められています。「あんまりストイックなジャズはツライなー」という方は、まずはそちらから聴いてみては? |