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王子ホールマガジン 連載

クラシック・リスナーに贈る
ジャズ名盤この1枚

文・藤本史昭

王子ホールマガジン Vol.37 より

 「ラヴ・ソングス」
 アンネ・ゾフィー・フォン・オッター&ブラッド・メルドー

 アンネ・ゾフィー・フォン・オッター(vo)
 ブラッド・メルドー(p)

 2010年6月 ストックホルム ベルワルド・ホールで録音

 今回はちょっと反則かもしれません。というのも、本作で歌っているのは、現代クラシック界最高のディーヴァの1人、アンネ・ゾフィー・フォン・オッターだからです。もちろんこのコーナーで取り上げるからには、選曲やアプローチが“ジャズ的なるもの”であることには違いないのですが、しかし、もしそれが「気分転換にちょいとスタンダードでも歌ってみました」という類いのものだったら、僕はあえてここで紹介することはなかったでしょう。フォルムとしてはジャズのそれを借りながら、けれど結果的にはジャズともクラシックとも一線を画した独自の音楽が出現している……だからこそ、僕はこの作品を高く評価するのです。そしてその成功は――オッター自身の歌唱はもちろんですが――ここで彼女と共演しているピアニストに大きく依っている、といっても過言ではありません。まずはその彼、ブラッド・メルドーについて。

 ブラッド・メルドーは、おそらく現代のジャズ・シーンにおいて、もっとも重要なピアニストの1人です。デビュー当初はビル・エヴァンスやキース・ジャレットに連なる“叙情派”という触れ込みでしたが、そしてたしかに彼にはそういう面も多々あるのですが、しかし次々と作品が発表されるにつれ人々は、この人のピアノがただきれいなだけではない複雑さを持っていることに気づきはじめます。
 その複雑さとはどういうものか。たとえばエヴァンスやキースの場合、美しく弾かれたフレーズは比較的すんなりと聴き手の内に入ってきますが、メルドーのそれはある種の屈折感があって、かんたんに気持ちよくなることを許してくれない。もっというと、彼の音楽には、聴き手に拒絶されかねない「毒」というか「狂気」が密やかに、しかし濃密に含まれている。1つ例を挙げれば、彼の選曲と解釈。メルドーは、レディオヘッドやオアシスといった現代ロック・グループのレパートリーをカヴァーした最初の世代のジャズ・ピアニストですが、彼のそれらの曲の扱いは、単にジャズっぽく演奏するというのではなく、音楽の内に深く食い込み、時には原テキストの持つ意味合いを超えてしまうほどに過激なのです。こういう「コンテンポラリー・ポップ・ミュージックへのコミット」という指向性は時にトータルなアルバム作りにまで及び、たとえば「ラーゴ」という作品では彼はロック畑のプロデューサーやミュージシャンを全面的に起用し、大きな物議を醸しました。
 そんな、「鬼才」「孤高」といったイメージがちらつく一方で、しかしメルドーは、他者と共演し、相手を引き立てつつ自身の個性をアピールするという希有なコラボレーション能力をも有したピアニストでもあるのです。リー・コニッツやチャーリー・ヘイデン、パット・メセニーといったジャズ界のVIPのみならず、クラシックのルネ・フレミングまでもが自分の“ジャズ・アルバム”に彼を起用している事実は、そのほかならぬ証左といえるでしょう。そう、ひとことでいうならば、メルドーという人は、厳然としてジャズの世界の住人でありながら、ジャズを超えたピアニスト、なのです。

 そういうピアニストをオッターがパートナーに選んだのは、当然といえば当然かもしれません。なぜなら彼女もまた、軸足はクラシックの世界に置きながら、他ジャンルとの接触を積極的に図る自由な精神を持った音楽家だからです。同郷のABBAのヒット曲をカヴァーした「ザ・ウィナー~オッター・シングズ・アバ」。あるいはエルヴィス・コステロとコラボした「フォー・ザ・スターズ」(名作です!)。これらのアルバムにおけるオッターの、相手に敬意を払いつつもけっして媚びることなく自身のスタイルを貫いた歌唱を聴くと、この人がメルドー同様、自分が属するジャンルへの矜恃を持った上で、異ジャンルへの関心と共感を抱き、それを実践するアーティストだということがよくわかります。
 そんな彼女らの姿勢は本作でも変わりません。メルドー自身のペンになる歌曲集《love songs》が収められたdisc-1でも、ミシェル・ルグランやジョニ・ミッチェル、レノン=マッカートニーのナンバーをカヴァーしたdisc-2でも、オッターはクラシック歌手としてのスタイルを崩さず、一方のメルドーはあくまでもジャズ的スタンスでサポートします。にもかかわらず立ちあらわれる音楽は、繊細きわまりない親密さで満たされている。「優れた音楽はジャンルを超える」……月並みなこの言葉が嘘偽りのない真実であることを、この作品は教えてくれます。

著者紹介

藤本史昭/1961年生まれ。上智大学文学部国文学科卒。写真家・ジャズ評論家として活動。「ジャズ・ジャパン」誌ディスク・レビュアー。共著・執筆協力に『ブルーノートの名盤』(Gakken)、『菊地成孔セレクション~ロックとフォークのない20世紀』(Gakken)、『ジャズ名盤ベスト1000』(学研M文庫)などがある。王子ホールの舞台写真の多くは氏の撮影によるもの。
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