この連載、今回で40回を数えるのですが、つらつらとバックナンバーを眺めていて、ハタとあることに気がつきました。ベーシストのアルバムを1度も取り上げてない!(以前にチャーリー・ヘイデンの「ミズーリの空高く」をご紹介したことがありましたが、あれはどちらかというと共演者であるパット・メセニーが前面に出たものでした)
もちろんベーシストのリーダー作はたくさんあります。しかしそれらの多くは、リーダーとは名ばかりで演奏自体はどこまでも縁の下の力持ち的なものか、逆にオレがオレがと超絶技巧ソロを披瀝したもの。なにか、ジャズ・ベース本来の役割――音楽全体のボトムを支え、同時にグイグイと推進させていく――を全うしながら、しかもベーシストが強烈な存在感を放つ作品はないものか、と悩んでいたら……ありました! チャーリー・ミンガスの「直立猿人」! いや、これが果たして「クラシック・リスナーに贈る」のにふさわしいかどうかは甚だ疑問ではあるのですが、そこに聴かれる演奏がジャズ・ベースというものの本質を――きわめてデフォルメした形でではありますが――提示していることだけはたしかです。
チャーリー・ミンガスは、1940年代初頭から活動をはじめ、チャーリー・パーカーやバド・パウエル、マイルス・デイビス等とともにジャズの新しい道を切り拓いていった、いわばジャズ・ジャイアンツの1人です。
で、先に挙げた人々の例にもれず、この人もまたアクが強かった。音楽を聴かずにくっちゃべっていた客を演奏を中断して罵倒するわ、バンドのトロンボーン奏者を殴って歯をへし折るわ、黒人差別主義者の州知事を名指しでバカ呼ばわりした曲を作るわ、マスコミに対して「オレをチャーリーと呼ぶな! チャールズと呼べ!」と食ってかかるわ……なんか常に怒ってるオッサンって感じなんですよね。
そういう人だから、作る音楽もまた暑苦しい。社会風刺や黒人差別に対する怒り…そういう「音楽外のもの」をしばしば音楽に持ち込むため、ミンガスの作品は賛同者からは熱烈に支持されますが、音楽は純粋な音の表現であってほしいと願う人は拒否反応を示してしまうのです。彼がまぎれもないジャズの巨人でありながら、どことなく正統でない感じを与えるのは、たぶんそういう事情によるのではないでしょうか。
ただ音楽的才能とそこから発せられる訴求力についていえば、ミンガスのそれは本当に圧倒的です。小編成グループからビッグバンドのような音響を生み出すサウンド・クリエイト能力。独創的なコンセプト設定とそれを実際に具現化してみせる腕力。時に、獰猛な風貌からは想像もつかないような叙情に満ちた曲を作り出す繊細な音楽性。よりよい表現の可能性を妥協なく求め続ける誠実さ。
本作「直立猿人」についていえば、まずその表題曲における発想の奇抜さに驚かされないわけにはいきません。この曲は、猿人の「進化」「優越感」「衰退」「滅亡」を組曲形式で表現し、ひいては現代人を風刺しているのですが、そんなものをテーマにしようなどと考えたジャズマン、ミンガス以外にはいません。また、その表現の仕方も実に斬新で、たとえば古いジャズのスタイルであったコレクティブ・インプロヴィゼーション(メンバー全員が同時に即興演奏をおこなう手法)と、当時はまだその名称さえもなかったフリー・ジャズを予感させるアプローチの共存などはそれまで誰も試みたことのないアイディアです。さらに2曲目《霧深き日(フォギー・デイ)》では、濃霧による渋滞道路で鳴り響く車の警笛や救急車のサイレンを楽器で巧みに描写し、霧のロンドンを歌ったこのロマンチックなスタンダード・ナンバーに「文明社会の風刺」という新しい解釈をほどこしてみせます。
こうしてみると、ミンガスという人は、演奏家というよりも作編曲家あるいはバンドリーダーという側面が強いように思えますが(そしてそれはある面では事実なのですが)、しかしその表現の土台にあるのは、やはりこの人のベース・プレイなのです。強靱でぶっとい音。なにがあってもビクともしないビート感。激しく自己主張しつつもソリストを引き立てるランニング・ライン。そういう「ベース本来の表現」なしには、あの過剰でウザいミンガス・ミュージックは絶対に成立しないと僕は思います。
「夏本番で、ただでさえ暑いのに」とおっしゃるなかれ。我慢大会の気分で、汗をダラダラかきながらミンガスの音楽を聴いてみるのも、また一興かと……。 |