ミシェル・ルグランといえば知らぬ者なきフランス映画音楽界の大巨匠。「シェルブールの雨傘」「ロシュフォールの恋人たち」「華麗なる賭け」「おもいでの夏」等々、繊細と大胆、エモーションとエレガンスが美しく共存したその音楽は、きっとみなさんも1度は耳にしたことがあるはずです。
その一方で彼は――映画音楽作家としてほどの認知度はないかもしれませんが――きわめて優秀かつ個性的なジャズ・ピアニスト/編曲家でもありました。ファナティックで時に饒舌なまでのピアノ・パフォーマンスと、ジャズの伝統に臆することなくクラシック的なテイストをふんだんに盛り込んだアレンジは、本場アメリカのジャズマンや批評家からも高く評価され、ルグランの名は今もジャズの歴史にくっきりと刻印されています。
今回ご紹介するのはそんな彼の最初のジャズ・アルバムにして最高傑作の1つ、その名も「ルグラン・ジャズ」です。
時は1958年の晩春。ルグランは約1ヶ月半にわたるアメリカ旅行に出かけます。名目は新婚旅行。しかし真の目的は、当代随一のミュージシャンを集めて、自分の編曲によるジャズ・アルバムを録音することでした。彼が候補に挙げたメンバーは、ジョン・コルトレーン、ベン・ウェブスター、ビル・エヴァンス、フィル・ウッズ、ハービー・マン、ポール・チェンバースetc.……眺めるだけで目眩がするようなすごい顔ぶれですが、当時ルグランはすでに超売れっ子だったのでかなりのわがままも通ったのでしょう、レコード会社の全面的な協力のもと、この夢の企画は順調に滑り出したのでした。
ただ、ルグランの夢を完璧なものにするためにはもう1人、絶対に欠くことのできない人物がいました。それは、マイルス・デイヴィス。1940年代後半からルグランにとってアイドルであり続けたマイルスは、このレコーディングのキーマン、彼がいなければ企画の意味そのものがなくなってしまうほどの重要な存在でした。
けれど相手は気むずかしいことで知られるジャズ界の帝王。たとえ形式上は参加の許諾を得ていても、機嫌を損ねれば「やーめた」となりかねません。そこで一計を案じたルグランは、レコーディング曲のスコアを携え1人マイルスの自宅を訪問、作品のコンセプトやメンバーについて懇切丁寧に説明します。それをきき、一応は納得したマイルスでしたが、それでも録音当日、最初の5分間は(いつでも帰れるようにか)スタジオの扉のところにたたずみ、それが参加に値する音楽かどうかを品定めするようにリハーサルの様子をじっと眺めていたといいます。そうした上でようやく納得した帝王は、ゆっくりと自分の席に座り、おもむろに与えられたスコアを吹きはじめたのでした。 しかしそんな苦労の甲斐あって、できあがったアルバムは、50年代末のジャズ・シーンにあって、きわめて特異な輝きを放つ作品となりました。中でもききものは、やはりマイルスが参加したトラックで、これらは、2つの偉大な才能の出会いがなければ生まれなかったであろう唯一無二の演奏になっています。
たとえば《ジャンゴ》。この曲にはすでにモダン・ジャズ・カルテットによる名演がありましたが、ここでのルグランは元曲の持つメランコリックな気品をさらに増幅させるかのようなアレンジをきかせます。ハープとヴィブラフォンをフィーチャーして奏でられるテーマとその上を縹渺と渡りゆくマイルスのソロ。その独特の音楽は、図らずもこの曲の作者であるジョン・ルイスが目指した、「ジャズとクラシックの融合」を体現しているかのようです。
あるいは《ラウンド・ミッドナイト》。これにはマイルス自身による歴史的な決定版があり、普通ならそんな曲、恐ろしくて取り上げられないところですが、そこはルグランも超一流の芸術家。まるでその名演に挑むかのように、優美な、それでいて曲本来の寂寥感を損なわない独創的なサウンドを創出し、この曲に新たな生命を吹き込んでいます。
先頃日本版が発刊された「ミシェル・ルグラン自伝」(アルテスパブリッシング)によれば、ジャズにのめり込みはじめた16歳の時、ルグランは「交響曲作家か、バップ作曲家か、どちらの道を取ろうか? どうやって選ぼうか? あるいは、そもそもなぜ選ぶのか? これらの文化を全部混ぜ合わせて結びつける方法は存在しないのか?」という疑問を抱いたといいます。この作品には、その答の一端が示されているように僕には思えるのですが。 |