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王子ホールマガジン 連載

クラシック・リスナーに贈る
ジャズ名盤この1枚

文・藤本史昭

王子ホールマガジン Vol.23 より

「スピーク・ライク・ア・チャイルド」
ハービー・ハンコック

ハービー・ハンコック(p)
ロン・カーター(b)
ミッキー・ロッカー(ds)
サド・ジョーンズ(flu)
ピーター・フィリップス(b.tb)
ジェリー・ドジオン(a.fl)

1968年3月6.9日 ニュージャージー、ルディ・ヴァン・ゲルダー・スタジオで録音

 ジョニ・ミッチェルへのトリビュート・アルバム「リヴァー」での2007年度グラミー最優秀アルバム賞受賞、あるいは80年代前半のヒップホップ・ チューン《ロック・イット》のヒット(アンドロイドがダンスを踊るエグいPV、ご覧になったことありませんか?)などもあって、ハービー・ハンコックの名 は、あまりジャズに興味のない方にも比較的知られているのではないでしょうか。

 60年代半ば、あのマイルス・デイビス・グループに参加して頭角をあらわしたハンコックは、もちろんピアニストとしての腕前も抜群ですが(というか、彼 がマイルス・バンド時代に開発し、その後発展させた独特のスタイルは、今やジャズ・ピアノ演奏の基礎言語になっているほどです)、その活動歴・作品歴を眺 めてみると、実はこの人、ピアノそれ自体に依存した行き方よりも、音楽全体のプロデュースを志向するミュージシャンであることがわかってきます。たとえば 先述した「リヴァー」でまず耳を惹くのは、ハンコックのピアノよりもむしろ様々なシンガーの歌ですし、《ロック・イット》で活躍したのは当時まだ珍しかっ たDJのスクラッチでした。また彼の名を一躍有名にした1973年のアルバム「ヘッド・ハンターズ」もメイン・コンセプトはファンクという“リズム”。加 えていうなら、半世紀に及ぶキャリアにもかかわらず、ハンコックにはピアノ・トリオ――つまりピアノが主役の作品が数えるほどしかないのです。

 今回ご紹介する「スピーク・ライク・ア・チャイルド」は、そんな彼のトータル・ミュージシャンとしての方向性が最初に顕在化した、にもかかわらず彼の膨 大な作品中5本の指に入る(であろうと僕は信じます)傑作アルバムです。

 このアルバムでまず興味深いのは、楽器の編成です。ピアノ・トリオ+3本の管楽器という形こそごくごくオーソドックスですが、その管楽器の種類が変わっ ていて、フリューゲルホーンにバス・トロンボーン、そしてアルト・フルートという中低音域主体の地味な楽器ばかりが起用されているのです。しかもハンコッ クは、この管楽器たちに一切ソロを取らせず、終始バックグランドに徹させます。これは発想としてはウィズ・ストリングスやウィズ・ブラスの、クラシックで いえばコンチェルト・フォーマットの援用ですが、ジャズのコンボでこれを実践した例は、それまでほとんどありませんでした。

 斬新なのは編成ばかりではありません。ここで演奏されている楽曲は1曲を除いてハンコックのオリジナルなのですが、そのすべては、マイルスの創始した モードの手法(2007年冬号「カインド・オブ・ブルー/マイルス・デイビス」を参照)をさらに発展させた「モーダル/コーダル」の技法(モードの旋律的 な行き方とコードの和声的な行き方を組み合わせた技法)を用いて書かれています。要するに、当時もっとも進んでいたジャズの形の一つがここにあるわけで す。

 このように、ある意味実験的といっても過言ではない試みの数々が投入されているにもかかわらず、しかし不思議なことにここには、そういう音楽にありがち な生硬な雰囲気がまったく感じられません。それどころか、全体を支配する印象はむしろ叙情的で、3管の醸し出すエッジの緩い暖色系のサウンドは、まるで印 象派の画家の手になる淡いタッチの水彩画、といった趣です。そのもっとも顕著な例がアルバム・タイトル曲。ピアノとホーンが交錯しながら織り上げていくタ ペストリーのようなテーマ部。清新で瑞々しいハンコックのソロ。そのソロを柔らかな色調でカラーリングしていく3本の管楽器アンサンブル……。このトラッ クには、「ピアノよりも音楽を愛する音楽家」としてのハンコックの真骨頂が示されています。

 あるいは1曲目の《ライオット》や6曲目の《ソーサラー》。これらの曲はマイルス・バンドでも演奏されているのですが、マイルス版がキレキレの緊張感と クールな尖鋭性を特徴としているのに対し、ここでの演奏は、緊張感は維持しながらももう少しソフトでリリカルな表情になっています。これもまた この音楽 家の美しいバランス感覚のあらわれといっていいでしょう。

 余談ですが、アルバム・ジャケットのシルエットは、若き日のハンコックとその夫人。収められた音楽の美しさを象徴するようなこのカヴァーもまた、ジャズ 史に残る屈指の“名画”ではないかと、個人的には思っています。

著者紹介

藤本史昭/1961年生まれ。上智大学文学部国文学科卒。写真家・ジャズ評論家として活動。「スイング・ジャーナル」誌ディスク・レビュアー。共著に『200DISCS ブルーノートの名盤』(立風書房)、『楽器でジャズを楽しもう』(河出書房新社)がある。王子ホールの舞台写真の多くは氏の撮影によるもの。
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