ワルターの急病で急遽タクトを振り、大指揮者への第一歩を踏み出したレナード・バーンスタイン。ドタキャンしたグールドに代わりコンチェルトのソリストを務め、その名を世界に知られるようになったアンドレ・ワッツ。「緊急事態」というドラマティックなシチュエーションゆえか、クラシックの楽壇では代役がきっかけでスターが生まれるケースが意外に多いようです(尤もワン・チャンスをものにできずに消えていった人は、その何十倍何百倍もの数に上るのでしょうが)。
一方ジャズの世界では、ミュージシャンがあらわれない(酒、薬が主な理由)、ステージの途中で消える(酒、薬、女性が主な理由)、呼ばれてないのに勝手にステージに上る(酒……以下略)ということが日常茶飯事だったので(もちろん今のジャズマンは皆ジェントルなのでそんなことはありません……と思います。念のため)、クラシックほど劇的なエピソードは多くありませんが、それでも大きなフェスティバルなどでは稀にそういうハプニングが起きました。たとえばレイ・ブライアント。
レイ・ブライアントは1950年代から今世紀初頭にかけて活躍したピアニストです。彼がシーンに登場した当時のジャズ演奏は、モダンなアプローチによるビバップ・スタイルが主流でしたが、教会ピアニストだった母親の影響で幼時からゴスペルをきいて育ったせいでしょうか、ブライアントのプレイはより黒人感覚(ブルース・フィーリング)を強調したものでした。
そういう個性が注目されたのか、20歳台の半ばから彼は、マイルス・デイヴィスやソニー・ロリンズ、カーメン・マクレエ、マックス・ローチといった大物からサイドマンに起用され、またリーダー作をコンスタントにリリースする機会にも恵まれます(ちなみに1956年に発表された「レイ・ブライアント・トリオ」というアルバム、就中そこに収められた《ゴールデン・イヤリングス》は、ジャズ史に残る大名演です)。レコードを出すどころか、その日暮らしがやっとというジャズマンがあふれていたことを考えれば、そのキャリアは順風満帆といっていいでしょう。
とはいえ、それはあくまでも売れないジャズマンとくらべての話。ジャズ・シーン全体を俯瞰して眺めるならば、ブライアントもまた、数多あるピアニストの中のone of themに過ぎませんでした。1972年の6月23日までは。 その日、モントルー・ジャズ・フェスティヴァルのメイン・ステージには、すでに大御所として名声をほしいままにしていたオスカー・ピーターソンが登場するはずでした。ところがピーターソンは準備不足を理由にコンサートをキャンセル。そこで主催者が代役として白羽の矢を立てたのがブライアントでした。
しかしその頃のブライアントは、そこそこ名は知られていたとはいえ、ピーターソンにくらべれば格としては二段ぐらい下。また当時の彼の作品はいささか商業主義的な路線に傾いており、そういう方向性に批判的な目を向けるジャズ・ファンも少なくはありませんでした。加えてモントルーに出演するのはこの時がはじめて。要するに、かなりのプレッシャーの中でブライアントはこの大舞台に立つことになったのです。
ところが――おそらくは本人さえも――予想外のことが起こりました。1曲目の《ガッタ・トラヴェル・オン》が終わるや、そのパワフルでアーシーな演奏に客席が大騒ぎとなったのです。つかみはOK。こうなればあとはブライアントの独壇場です(って、ソロ・ピアノだから当たり前ですが)。時にブルージーに、時にテンダーに、硬軟取り混ぜたパフォーマンスに聴衆は完全に魅了され、約1時間のステージが終わった時にはブライアントは、世界のジャズ・シーンからコールされる一流ピアニストの仲間入りを果たしていたのでした。
その伝説の記録が、今回ご紹介する「アローン・アット・モントルー」です。先述したオーディエンスの熱狂。やや緊張気味のブライアントのMC。そしてどこまでも黒く、躍動的で、それでいてほのかな抒情をも感じさせる圧倒的な演奏。これをきけば、このサクセス・ストーリーが少しもおおげさではない真実であることがわかるはずです。とりわけクラシック・ファンのみなさんにぜひきいていただきたいのが、畏れ多くもリストの名曲をブギウギで演奏してしまった《“愛の夢”ブギー》。大作曲家を冒とくしている? いやいや、編曲好きで鷹揚だったリストのこと、この名(迷?)演にきっとあの世で大ウケしているに違いありません。
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