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王子ホールマガジン 連載
ピアノという仕事 Vol.19 

山田武彦

ピアノという仕事王子ホールマガジン Vol.47 より

王子ホールではクライスラーの室内楽のほか、ニーノ・ロータ作品やキャバレー・ソングまで弾きこなし、また委嘱作「エレクトラ3部作」のアンサンブル・メンバーやバロック協奏曲のチェンバロ奏者としても登場した山田武彦。この4月には「波多野睦美、バルバラを歌う」で伝説的シャンソン歌手の名曲の数々を編曲し、ピアノを務める。まさに融通無碍の音楽家というべき存在だが、『ピアノを使う音楽のスタッフ』として様々な現場に携わってきた経験が糧になっているようだ――

山田武彦(ピアノ/作曲)

東京藝術大学作曲科卒業、同大学院作曲専攻修了。1993年フランス政府給費留学生としてパリ国立高等音楽院ピアノ伴奏科に入学、同クラスの7種類の卒業公開試験を、審査員の満場一致により首席で一等賞を得て卒業。フランスの演奏団体でソリストとして現代音楽の紹介を務めるほか、フランス北部ランス市において大戦後50周年記念式典のために委嘱作品を発表。帰国後はピアニストとして数多くの演奏者と共演、的確でおおらかなアンサンブル、色彩豊かな音色などが好評を博し、コンサート、録音、放送等の際のソリストのパートナーとして厚い信頼を得る。2004年より“イマジン七夕コンサート”音楽監督、07年より“下丸子クラシックカフェ” ホスト役を担当するなど、ユニークなコンサートの企画にも参加している。現在は洗足学園音楽大学教授・作曲コース統括責任者、ピアノ&作曲マスタークラス・チーフ。楽曲分析、和声法、対位法、伴奏法などの講座を担当。全日本ピアノ指導者協会正会員、日本ソルフェージュ研究協議会理事、日本ピアノ教育連盟会員。

Q 音楽、そしてピアノとの出会いについてお話しください。

山田武彦(以下「山田」) 両親は音楽の専門家ではありませんでした。でも僕はテレビやラジオでかかっている音楽が好きで、子供番組なんかで音楽が流れるとテレビのそばに坐ってじっと聴いていたそうです。そのうち歌詞を口ずさむようになったんですが、いつの間にかイントロと伴奏だけを歌うようになったみたいで、趣味でウクレレをやっていた母親がチラシの裏に五線譜を書いてドレミを教えてくれるようになりました。それからピアノを習いたいと言い出して、駅前の楽器屋さんでやっていたピアノ教室に通うようになったところ、そこで働いていた音大のピアノ科の大学院生の方が自宅でも教えてくれることになりました。その先生は作曲もする人で、作曲やら和音のことだとかも習うようになりました。

Q それは何歳ぐらいのときだったんですか?

山田 小学校1年生です。ピアノを始めたのはその1年前ぐらいでした。2歳、3歳という年齢ではないけれど、ピアノを始めたのとほぼ同時に作曲にも興味を持つようになったんです。やがて先生は九州の高校で教えることになってお別れとなったんですが、そのときに自作の曲を贈ってくださって、その楽譜は今でも持っていますよ。ちなみに先生はその後、卒業式で《君が代》をジャズ風にアレンジして弾いてちょっとした騒ぎになりまして……なんてことは書けないですよね(笑)。

Q その後はどのように勉強されていたのですか?

山田 その後はそれほど専門的なことはせず、習い事として続けていきました。その後藝大の付属高校に入ったんですが、その時点で本格的に音楽を勉強していきたいと思うようになっていました。

Q その時点で専攻はもう決めていたのですか?

山田 自分の中では正直、決めかねていました。ある先生に相談したところ、ショパンのどれそれを弾いたことがあるかと訊かれました。「いや、ないです」と答えると、「じゃあ作曲にしなさい」と。その一言で作曲科を受験したんです。自分としては一日中広く音楽のことを勉強したかったので、それで藝大附属に進学を決めたわけです。だからまだ職業としての音楽を意識していたわけではなかったですね。
 作曲の勉強をしつつも、演奏するのは好きでしたから、クラスにいるいろいろな器楽奏者に刺激をもらいつつ楽しく演奏していました。仲間と一緒に演奏するために曲を書くこともありましたし。作曲家とはこういうものだ、というイメージは自分の中にはあまりなくて、むしろベートーヴェンだとか歴史上の人物というイメージがありました。今生きている人が新しい作品を書くということにあまり現実味を感じませんでした。舞台に出て演奏すること、そして何か新しいアイディアを書いてみること、その2つをなんとなく両立させた状態で大学に進みました。

Q 学生でいた当時の最先端の音楽に突き進んでいこうという気持ちはありましたか?

山田 藝大の作曲科は、曲を作るうえで基礎となる知識が身についているかを試験でみて、それをクリアして中に入ったら、あとは手探りで自分の世界を作りなさいという場に感じられました。18歳だった僕は、なんだかわからないなりに自分の世界に取り組んでみようとしました。ありとあらゆる実験的なこと、人が顔をしかめるようなこともやってみました。苦しかったですね。何をしていいか分からないし、孤独な作業になるから。夜中にずーっと考えたり。そうすると心身のバランスが難しくなる。そういうときにはピアノを弾くことが支えになりました。誰かとアンサンブルをすること、伴奏することが、作曲とは別の場所で自分の心のバランスを取る大事なものになりました。
 そうするとこんどはそれが面白くなってくる。僕らのころは学校のなかで伴奏を教えるクラスがなかったので、自分一人でやるか、いろんな楽器の先生の所へ行って聴いていただくしかないんです。そうなるとある意味で、学生として作曲とピアノを両立できるようになるわけです。どうしてかというと、自分は新しい音楽を作ろうとしていて、それは自分一人では上演できないから、友人に演奏を頼む必要がある。その友人の伴奏を引き受けることで、自作の演奏も依頼できるようになる。持ちつ持たれつですね。

Q 伴奏する機会の多かった演奏家を想定して作品を書くことも多かったのですか?

山田 アンサンブル・ピアニストをやる、伴奏するというのは頼まれ仕事である場合がほとんどです。いわばスタッフ。仕事を請け負ったからにはある程度のレベルで、一定の水準に達していないと、次に仕事は頼まれません。そういうスタッフとして仕事を請け負うのと、自分の仲間といろいろとやるというのは別なんです。僕の場合は最初の先生の影響か分かりませんけれど、演奏しながら何かを作るということが大事で、それのもっともはなはだしいのが即興演奏ですね。そういう即興を一緒にする仲間が徐々にできていった。うっかりすると、そういう人たちと3時間も4時間もずっと即興しているんです。それはもう一方の、伴奏を大人しくやりますというのとは全然違うものです。即興の世界は今まで自分のやったことのない新しい何かの扉で、伴奏のほうは後の職業、ピアノを使ってギャランティをいただくという活動に結び付くわけです。
 当時はクラシックの勉強をしていましたけれど、クラシック以外の音楽にも接触するようになり、クラシック以外のジャンルをもっとやってみたいという気持ちと、自分の基盤になっているクラシックからは抜け出せないだろうという気持ちと、ジレンマを感じる時期でもありました。

Q 藝大を出てからフランスへ留学されましたね。

山田 28歳のときです。卒業してからしばらくしてからです。その間は自分なりの音楽の活動をしつつ、藝大のソルフェージュのスタッフとして働いていました。それは自分の家庭の事情というか、音楽家の家庭ではなかったから音楽をやることに抵抗があったんですね。音楽では食べられないよ、ということは親だけでなく親族からも言われましたし、そういう職業に就くことに対する不安は相当ありました。藝大を卒業したら、なんとか音楽を職業として成立させなければという気持ちがあったんです。安定はしないものの多少の収入を得られるようになりましが、それでもまだ勉強したいという夢があったので、2年少々フランスへ行きました。

Q パリの国立高等音楽院では伴奏科に行かれたとのことですが。

山田 伴奏科というのは、音楽をどのように職業にすればいいのか、それを真剣に考えるクラスでした。演奏家としてステージで伴奏するというのも、もちろんひとつの職業ですけれど、それ以外にもいろいろな団体に所属する可能性だってある。『ピアノを使う音楽のスタッフ』になる――それを目の当たりにして、これが自分のやらなければならないことだと感じました。オペラならオペラの練習現場で必要とされるし、そういう職業としてのピアニストのあり方を学ぶという点で、とても勉強になりました。

Q 実際にいろいろな現場で活動をされたのですか?

山田 そうですね。オペラのコレペティトゥアもそうですし、他にもバレエのクラスに行ったり、現代音楽ばかりやっている団体のところへ行ったり、放送の現場に行ったり。いずれの場合もピアノを使うけれど、求められる技能が少しずつ違うんです。当然と言えば当然ですが。今でも非常に面白いなと思いますね。

Q この現場が特に自分に合っているなと思うところもありましたか?

山田 あるにはありましたけど、いろいろな場所に行きたいという気持ちもあった。行く先々で臨機応変に対応することが面白いんですね。たとえば歌い手さんとステージでご一緒するときに、様々な国の作品を演奏しますよね。オペラアリアだけでなく、ミュージカルの作品をやることもある、ジャズ系の曲をやることもある。そういう変化に対応することが僕にとっては非常に面白いんです。

Q フランスで様々な現場を渡り歩いてきた後、日本に帰国してからはどのようにキャリアの展開になっていったのでしょう?

山田 それは振り返ったことがないですね(笑)。まずピアノを弾かせてもらうということに関しては、引き続きできるだけいろいろな場所で、多くの機会をもちたいと思って活動していました。ステージでいろいろなジャンルの音楽を弾くということばかりではなくて、1週間後に公演を控えているのに急遽ピアニストが倒れた、というような現場にどうやって関われるか。舞台公演に限らず、教室やオーディションでもそうです。そういうところにどうやってピアノのスタッフとして関われるかを考えていました。そうするとマネジメントの方々は、「山田はいったい何がやりたいんだ?」と困ってしまう(笑)。でも僕にとってはそれがすごく重要で、ピアニストを必要としている現場が必ずあるから、そこへ関わっていきたいというのが自分の考えでした。今は時間的な制約もあって突発的な事態に対応することがそれほどできなくなってしまいましたが。
 それから、教育ですね。帰国してからはいくつかの学校の教育に関わりましたけど、今は洗足学園で専任という立場で教育に関わるようになりました。これも自分で選んだ道です。簡単に言えばこれは恩返しで、自分が受けてきた教えをもっと若い人たちに与えていきたい。そのための態勢も整えていきたいと思っています。どういうことをやっていったらいいのかを考え、時代のニーズに合ったクラス運営とはどういうものか、経営サイドの視点も学ばなければならない。今の自分の生活のなかで教育はかなりのウェイトを占めています。
 それと、新しいものを何か作っていきたい。曲を作るというのも悪くはないことだし、自分は作るのは好きです。曲というのはそれ単体で存在する自分の子供のようなもので、一人歩きするものであり、どこで演奏されてもいい。でも「この日にこういうイベントがある」という機会をつくることも大事だと思います。8年前から下丸子にある大田区民プラザで続けてきた「下丸子クラシック・カフェ」にしてもそうです。ホールのプロデューサーと、一緒に進行をしてくださった故・頼近美津子さんにアイディアをいただきながらつくっていきました。演奏半分トーク半分というかたちで、音楽を使ってお客さんと心のやり取りをする――新しい作品をつくるのとは違うけれど、音楽を通して人間性が出る、自己表現になる。どんな音楽であってもその人があらわれるところが面白いですね。

Q これから先の展望についてお訊きしたいのですが、洗足学園では伴奏のプログラムなんかもなさっていましたね。

山田 一時期、伴奏塾というのをやっていました。その時々でどういうことが求められているかリサーチして、教育プログラムを考えています。今やっているのはピアノと作曲をいっぺんに勉強するクラスで、これは3年目になります。アンサンブル奏者になる人や指導者になる人など、細かくケアをして職業意識を培っていく時代なんでしょうね。自分たちも他の学校もそういうプログラムをしきりに作っています。
 自分は広く音楽を学びたいから自分の選んだ道をやってきました。ピアノを勉強したいと思ったけれど、一定のレベルに達していなかったから作曲科を選んだ。けど作曲だけを勉強したかったかというとそうでもないから、総合的にいろんなことをかじりたいと思ってやってきました。今この年齢になって、そういう場所を作らなければいけないなと考えています。場合によってはそういう人が卒業した後どんな仕事に就くのか、どんな社会人になるのかというところも考えておく必要がある。それは別に、きちんとした企業に勤めてほしいと考えているからではなくて(笑)、音楽のためなんです。乱暴な言い方をしてしまうと、大人の音楽をやってほしい。人間性がにじみ出るような大人の音楽をみんなが楽しめるようになるといいなと思っているんです。
 で、今後どういうことをやっていこうかといっても、全然わからない(笑)。けど新たな音楽の魅力を提示できるようなものを作っていきたい。それは僕の場合、別に前衛的な作品を書くことではないのだろうな。でもちょっと注目されるような、ちょっと人の注意を惹くような何かを生み出せればと思っています。

(文・構成:柴田泰正 写真:藤本史昭 協力:コンサートイマジン)

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