インタビュー ネマニャ・ラドゥロヴィッチ
王子ホールマガジン Vol.21 より ドイツで行われたあるコンサートでの出来事。 この日、ヴァイオリン協奏曲のソリストを務めたのはまだ子供といっていい年頃の奏者であった。細身の彼――ネマニャ・ラドゥロヴィッチは大きな身振りで生き生きとヴァイオリンを弾く。演奏が加速度的に白熱していくなか、ネマニャは突然のアクシデントに見舞われた。あろうことかベルトを締めずにステージに出ていたため、穿いていたズボンが落ちてしまったのだ。ネマニャはすぐさまズボンを引き上げ、恥ずかしさとやるせなさに耐えて演奏を続けたが、客席は大ウケ。クラシック・コンサートらしからぬ珍事となった。 |
ネマニャ・ラドゥロヴィッチ(ヴァイオリン) 1985年ユーゴスラヴィア生まれのセルビア人。ザールランド州立音楽演劇大学、ベオグラード大学芸術音楽学部、パリ国立高等音楽院で、それぞれ、エプスタイン、ミハイロヴィッチ、フォンタナローザに師事、さらにメニューイン、アッカルドにも学ぶ。95年ストレサ国際、96年コチアン国際、2001年エネスコ国際、03年ハノーファー国際各コンクールに全て優勝。早くから強烈な個性を発揮し、近年フランスを中心に人気が沸騰、アヴィニョン、モンペリエ、ペリコール・ノワール、ブカレストのエネスコ音楽祭、ラ・フォ ル・ジュルネ等多くのフェスティバルに出演するほか、アムステルダムのコンセルトヘボウ、パリのシテ・ド・ラ・ミュジク、アテネのメガロン、ニューヨークのカーネギーホール等世界の第一級ホールで演奏を行っている。演奏楽器は1843年J.B. ヴィヨーム製ヴァイオリン。パリ在住。 |
戦場のヴァイオリニスト 東欧の多民族国家ユーゴスラヴィアでは1990年代より分裂・独立の機運が高まり、クロアチア、スロベニア、マケドニア、ボスニア=ヘルツェゴヴィ ナ、セルビア、モンテネグロといった国々が生まれた。ネマニャ・ラドゥロヴィッチの育ったベオグラードは現在のセルビア共和国の首都。彼自身もセルビア人 である。そのセルビアの南西に位置するコソヴォはアルバニア系住民が大多数を占める地域だ。ここで90年代初頭に活発化した独立運動はやがて武力衝突に発 展、セルビア側のアルバニア人虐殺が取り沙汰されるなか99年にNATOが介入し、コソヴォの自治支援とセルビアの制裁を目的とする激しい空爆を行うに 至った。 「1991年から始まって、NATOの空爆が終息したのは99年。僕と家族は8年間、戦火のなかベオグラードで暮し ていました」。人懐っこい笑みを絶やさないネマニャだが、戦争の記憶を語るときにはその表情に翳がさす。「内戦中の生活は決して楽ではなかったです。もち ろん比較的穏やかな日もあれば、過酷な日もありました。ただ、終戦間近の3、4ヶ月は本当に厳しかった。くる日もくる日も空爆があって、あちこちで絶え間 なく爆発音がする。あまりにも数が多くて、どこに爆弾が落ちているのか分らなくなるほどです。『自分の生命はいま、赤の他人の手に委ねられている』と痛感 しましたよ。とてもやりきれない気分です。今日こそ自分の頭上で爆弾が炸裂のではないかと思って暮らすのですから」。 コソヴォは今年2月に独立を宣言、アメリカやイギリス、フランスといった国々に続き日本も独立を承認した。日本も含めたいわゆる『西側』諸国では独立・民族自決を尊しとする傾向が強いが、祖国の一部を失った人間の立場はどうか。ネマニャはこう語っていた。 「セルビア人として独立を認めたくない、という気持ちはあります。コソヴォはもともとセルビアの一部であり、自分たちの国土だという意識がありますから」。 コソヴォはセルビア建国の地であり、セルビア民族のルーツといえる場所のようだ。我々にしてみれば奈良や京都が日本から独立を宣言するようなものだろうか。 よろこびを共にする仲間 昨年から頻繁に日本で演奏を行うようになったネマニャ。前述のような少年時代を経てなお、ステージに立つ彼は快活でにこやかで、しなやかにヴァイオ リンを奏でる姿を見ていると音楽のよろこびが全身に伝わってくる。 「僕は自分のことを『ヴァイオリニスト』と定義することはなくて、常に『ミュージシャン』だと思っています。ミュージシャンとして大切にしたいのは、ステージに立つよろこびを持ち続けること。人々と時間を共有するよろこびを持ち続けることです」。 その屈託のない笑顔ゆえか、彼のもとには音楽のよろこびを体現するのにうってつけの仲間が集う。リサイタルに限っていえば、スーザン・マノフ、ドミニク・プランカード、ロール・ファヴル=カーンという3人の腕利きピアニストと共演する機会が多い。「皆すばらしいソリストです。それに一緒に時間を過ごして楽しい人、一緒に室内楽をやって楽しい人たちばかりです」とネマニャは言う。 スーザン・マノフはパトリシア・プティボンやサンドリン・ピオー、ヴェロニク・ジャンスなど、歌手との共演が多い が、ネマニャとはドビュッシー、プーランク、ラヴェルのフレンチ・プログラムをはじめとするプログラムを組んでおり、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナ タ全10曲を演奏するプロジェクトも企画しているらしい。 「スーザンはとても陽気で、そばにいると面白いです。この間なんて列車で移動中に僕のパソコンで一緒に『スーパー・ マリオ・ブラザーズ』をやって大騒ぎしていましたよ。彼女はとてもオープンな性格で、言いたいことを気兼ねなく言える人です。音楽的な面でも同じで、本当にいろいろなアイディアを持っているし、僕が何か思いついて彼女に伝えても、それを抵抗なく受け入れてくれる。ステージ上でもよく似てるんですよ。僕も身振りが大きいけど、彼女も動きが激しいんです」。 普段の練習についてネマニャは、「短時間に集中してやるほうが性に合っています。3時間以上練習すると、どうしても集中力を欠いたり、肉体的な負担が大きくなるので」と語っていたが、彼女とのリハーサルは例外のようだ。「スーザンとはじっくり練習しますね。朝の10時から夜の8時まで合わせることもあります。途中でお茶を飲みながら楽譜を挟んであれこれしゃべる時間も含めてですけど」。 フランス人ピアニスト、ドミニク・プランカードともオリジナルのプログラムを組んでおり、ドイツやイタリアの作曲家を多く扱っている。「男同士通じる部分もありますね」と話すこのパートナーとは、かなりシュールな経験も共にしたようだ。 「ドミニクとのリサイタルにすごい譜めくりさんが来たことがありました。80歳か90歳ぐらいのお婆ちゃんで、もう 耳が遠くなっていたんですけど、ぜひ譜めくりをさせてというのでお願いしたんです。弾き始めると、演奏に合わせてメロディを口ずさんで、『ああ、このソナタ大好きなのよ』なんて普通のトーンで喋るんですよ! 僕もドミニクも笑いが止まらなくなっちゃってガタガタでした。ようやくプログラムを終えて、アンコールに《タイスの瞑想曲》を弾いたんです。ドミニクは『自分で楽譜をめくれるから結構です』ってお婆ちゃんを舞台袖に残して出てきて、演奏を始めまし た。するとどうもステージ上で足音がする。振り返るとドミニクが笑いを必死にこらえている。見ると例のお婆ちゃんが『なんで私を呼ばなかったの、お手伝い しますよ!』って。参りましたね」。 そしてこの12月に王子ホールで共演する、ロール・ファヴル=カーン。出会いは3年ほど前だが、すぐに意気投合した という。 「一緒にいるときはずっとケタケタ笑っていますね。出会ったときからそうでした。ステージの上でも変わりません……あ、でもちゃんと演奏もしますよ! ロールと僕は、なんか似ているんです。お客さんも僕たちが似た者同士のコンビだということを感じるみたいです。スーザンやドミニクとも波長が合いますけど、ロールとはちょっと方向性が違いますね」。 「とても遊び心があって、ロマンティックな演奏をする」というロールとは、シューベルトからピアソラまで、ダンスの要素を持った作品を集めたプログラムを披露する。個別の曲は過去にも演奏してきたが、ひとつのまとまったプログラムとして演奏するのは今年がはじめてだそ うで、聴衆の反応をとても楽しみにしている様子が窺える。 「僕はヴァイオリンという楽器だけではなくて、音楽そのものが好き。クラシックだけじゃなくてポップスもロックも好きです。それに踊るのが大好きで、70年代、80年代のディスコ・ミュージックよく聴くんですよ」と話すネマニャだけに、思わず身体が反応するようなノリ の良いパフォーマンスになること請け合いだ。 人と人とをつなげるもの オンステージでもオフステージでも気の合うパートナーに恵まれ、演奏会では「言葉よりもはるかに多くのことを楽器を通して伝えていきたい」と語るネマニャ。彼にとってはパートナーや聴衆と演奏会の場、そして時間を共有することが大きなよろこびであり、音楽を続けるモチベーションにもなっている。こうした彼の音楽家としての姿勢は、やはりベオグラードでの戦争体験に少なからぬ影響を受けているようだ。ネマニャも他の人々も、戦火のなか音楽を忘れること はなかった。 「あの頃音楽はひとつの希望であり、人と人とのつながりがまだ失われていないと実感させてくれるのは、音楽しかありませんでした。音楽はあの難しい時期を乗り切る大きな力となったんです。空爆で停電になって、パン工場もパンを作ることができない。ようやくパンが入荷さ れたかと思うと、何百人もの人が殺到して自分たちの分を確保できない……そんな現実をつかの間でも忘れさせてくれるのが音楽でした。あるとき地元の演奏家に加えて、ナイジェル・ケネディをはじめ国際的に活躍するクラシック畑のアーティストがセルビアにきて、空爆に対する『人間の盾』としてストリートで演奏をしてくれたことがあります。肩を寄せ合い、手を取り合って音楽を聴く。そのとき隣にいる人を知っているかどうかは問題ではなくて、音楽を介して人と触れ あい、人のぬくもりを感じることが、とても大事だったんです」。 音楽が人と人をつなげ、それが生きていく力となる。現代日本に生きる人間がそう語っても、いまひとつ説得力に欠けるかもしれない。だがこの一点が、音楽家としてのネマニャ・ラドゥロヴィッチを支える柱となっているのだ。 「僕はいつも人々の前で人々のために演奏するよろこびを感じています。だからもし音楽を奏でる自分とお客さんとがフィーリングを共有できなくなってしまったら、演奏するよろこびを感じられなくなってしまったら、僕はもう演奏をやめてしまうかも知れません。僕は世界中の何よりも音楽を愛しているし、音楽をやめることはないと思うけど」。 ネマニャはきりりとした表情でそこまで話すと、いつもの人懐っこい笑顔に戻って続けた。 「なんて言いつつ、『もし音楽をやめたら何をしようかな?』なんて考えることもありますよ。実は美容師に憧れていて、この間も2歳の姪っ子の髪を切ってあげました。実はガールフレンドの髪も一度切ったことがあるんですよ。そしたら共通の友人に『あっ、あら、新しい美 容院にしたの?』って訊かれました。知らず知らずのうちに奇抜なヘアスタイルにしちゃったんでしょうかね? 彼女は気に入ってくれたと思うんですが……そ ういえばなぜかその後は髪をいじらせてくれませんね!」。 (文・構成:柴田泰正 写真:横田敦史 協力:日本交響楽協会) |
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