王子ホールマガジン 連載
ピアノという仕事 Vol.22
アレクサンダー・クリッヒェル
王子ホールマガジン Vol.51 より ドイツの若手ピアニスト、アレクサンダー・クリッヒェルは、数学オリンピックやドイツ政府主催の外国語コンクール、さらには生物学の研究活動を審査するコンクールでも入賞を果たすなど、音楽以外の才能にも恵まれ、多才ゆえに進むべき道を悩んだ時期もあるという。そんな彼も、今では持てる力のすべてを音楽に注いでいる。その背景には、何人もの導き手との出会いと別れがあったようだ―― |
アレクサンダー・クリッヒェル(ピアノ) 1989年、ハンブルク生まれ。6歳でピアノを始める。15歳よりハンブルク音楽演劇大学で学び、2007年からはハノーファー音楽演劇大学でウラディミール・クライネフに師事、現在はロンドン王立音楽大学にてドミトリー・アレクセーエフに師事している。11年にソニー・クラシカルと専属契約を結び、『春の夜~メンデルスゾーン、シューベルト、リスト、シューマン:ピアノ作品集』、『ショパン、フンメル、モーツァルト』、『ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番、楽興の時』の3枚をリリース。これまでに、ベルリンのフィルハーモニーおよびコンツェルトハウス、ハンブルク・ライスハレ、ミュンヘンのヘラクレス・ザール、ケルン・フィルハーモニーなどで演奏、ヨーロッパ各地の著名音楽祭にも登場している。科学・製薬企業であるドイツ・バイエル社の文化プログラム“stART programme”に選ばれ、同社の文化芸術部門からスポンサーとして支援を受けている。 |
――はじめにピアノを始めるに至った経緯を教えていただけますか。 アレクサンダー・クリッヒェル(以下「クリッヒェル」) 母は医学研究をしていて、父はエンジニアなので、完全に理系の家庭に育ちました。母は家にあったピアノを時々弾いていましたけれど、プロの音楽家ではありません。幼少期の自分はとにかく落ち着きのない子供で、その様子を見て母は何かしらやることを与えないといけないと思い、ピアノを習わせることにしました。ですが何人もの先生に断られたそうです。当時6歳だった僕は、まだ幼くて、じっとしていられない性分でしたから(笑)。そしてようやく見つかった先生はサンクトペテルブルク出身のナタリア・ポグリエワさんという女性で、当時はドイツ語を一言も話せませんでした。もちろん僕もロシア語は話せない。ですから先生と意思の疎通を図るにはピアノを弾くしかありませんでした。でもそのおかげで自然と「音楽は言語である」という認識が生まれました。先生とは今でも親しくて、コンサートにも来てくれます。自分にとっては「ピアノのお母さん」とでも呼ぶべき存在です。 Q 子供のころからプロになりたいという考えはあったのですか? クリッヒェル ピアノはあくまで学業に加えてやっている習い事であって、プロになろうとは考えていませんでした。転機が訪れたのは14歳のときです。リストのバラード第2番をはじめて演奏して、「音楽は他のどんなものとも比較できない。生涯をかけて音楽をやりたい」と思うようになりました。とはいえ当時の自分にとって、プロのピアニストはあまりにも遠い存在でした。自分にはコネもないし、クラシックの業界にどのようにして入ればいいのか、まるで見当がつかなかった。自分にあったのは、とにかく音楽とずっと関わっていきたいという気持ちだけです。ハノーファー音楽演劇大学でウラディミール・クライネフ先生のもとで勉強するようになってからも、自分の心の声に従って音楽の道に進むべきか、自分の理性に従って両親の望む医学の道に進むべきか悩んでいました。両親は僕が音楽の道で挫折するようなことがあれば、再起不能になってしまうのではと心配していました。だからそんなリスクを避けて医者になってほしいと望んでいたのです。でも音楽の持つ可能性をとことん追求したいという願望を抑えることができませんでした。 Q 表現したいという衝動が常にあったわけですね。 クリッヒェル 先ほどもお話ししたポグリエワ先生のおかげで僕は音楽を言語として捉え、愛するようなりました。その後師事したクライネフ先生からは、恐れることなく自分の内面をさらけ出し、演奏を通じて自分の感情を分かち合うことの大切さを学びました。分かち合う感情があるからこそ、人は自分のコンサートに来て自分の演奏を聴いてくれるのだと――僕は今26歳ですが、これまでに非常に近しかった人物を4人亡くしています。こういった経験は内に抱えておくには重すぎることがある。だからこそそれを吐き出す必要があるし、音楽によってそれが可能となっているのです。 Q プロのピアニストとしてのキャリアを確立するにあたって、大きく影響した出来事はありますか。 クリッヒェル ひとつは自分が15歳のときに第1位をとったスタインウェイ・コンクールですね。このときの演奏を聴いて、ロルフ・ズトブラックさんというハンブルクのエージェントが僕に興味を持ってくれました。当時彼はすでに76歳で、彼のオフィスで話をしたときに、「君は非常に若いし、私はもう年寄りだ。できればあと6年待って君が21歳になってから一緒に仕事をしたいが、そのころにはもうこの世にいないかもしれない。だから君がピアノで食べて行けるように道を作っておきたい」と言ってくれました。そしてその言葉の通り、まだ若く勉強の途中である僕が燃え尽きたり道をそれたりしないように気を配りつつ、コンサート・ピアニストとして必要なあらゆる知識を授けてくれました。彼は自らが予見していた通り、僕が20歳のときに亡くなってしまいましたが、おかげで自信を持ってステージに立てるようになりました。 Q ソニー・クラシカルとは非常に良好な関係を築けているようですね。 クリッヒェル 大手のレコード会社ですから製作するアルバムの数も多いし、そのラインナップにフィットする作品を考えなければなりません。でもレコード会社からあれこれ指図されてそれに従って演奏する、なんてことはまったくなくて、たとえば最初の『春の夜』についても編曲ものをいろいろと弾いてみるというコンセプトがあり、そのうえで何度も意見を交換して収録曲が決まりました。『モーツァルト、ショパン、フンメル』では、「ショパンはロマン派のモーツァルトである」という僕の見解を具現化するためのアルバム作りができました。最新のラフマニノフのアルバムに関しても同様で、とにかく自分が心から弾きたいと思っている作品を収録できています。 Q ラフマニノフのアルバムにはボーナストラックとして自作の《ララバイ》という曲が収められています。 クリッヒェル これにも親しい人の『死』が絡んでいます。僕の演奏を気に入って、何年にもわたって家族のように接してくれたベネズエラ人の支援者がいました。その方が75歳の誕生日を前に深刻なガンであることが発覚し、僕は自分がどれほど彼を慕い、彼に感謝しているかを伝えたくて曲を書きました。あくまでも個人的なプレゼントなので発表はしていなかったのですが、彼の死後に奥様から世に出すべきだと言われてアンコールで弾くようになりました。そのことを知ったソニーの方から、ボーナストラックとしてアルバムに入れることを提案され、収録することになったのです。自分がピアニストだからということもあって、ピアノ曲を書いてもなかなか満足できないのですが、この《ララバイ》だけは合格点をつけています。 Q 現在は音楽に100%の力を注いでいるわけですが、「じっとしていられない性分」ゆえに別の分野に興味が出てくる可能性はあるのでしょうか。 クリッヒェル 音楽だけでもやりきれないほどのことがあるので、やめるということは考えられません!音楽は自分自身への挑戦だし、音楽に飽きるなんて人がいたら、その人はどこかおかしいんじゃないかと思います(笑)。 |
(文・構成:柴田泰正 写真:藤本史昭 協力:パシフィック・コンサート・マネジメント) |
>>ページトップに戻る |