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王子ホールマガジン 連載
ピアノという仕事 Vol.13 

清水和音

ピアノという仕事王子ホールマガジン Vol.41 より

センセーショナルなデビューを飾り、以来30年以上にわたって第一線のピアニストとして常に存在感を示してきた清水和音。王子ホールでも“まろ”こと篠崎史紀をはじめとするアーティストと数々の名演を聴かせてくれている。いわゆる『ニート』状態から一躍スターとなり大きな重圧にさらされるようになった彼だが、仲間と音楽をすることの喜びがあるからこそ今日までピアノを続けてこられたという――

清水和音(ピアノ)

1981年、弱冠20歳でパリのロン=ティボー国際コンクール・ピアノ部門で優勝、あわせてリサイタル賞を受賞。82年、NHK交響楽団と初共演、また、デビュー・リサイタルを開き高い評価を得た。その後国内外の著名なオーケストラ、指揮者と多数共演。95年から2年にわたって行われたベートーヴェンのピアノ・ソナタ全32曲演奏会はその完成度を新聞紙上で高く評価され、ライヴ録音がリリースされている。04年からショパンの全曲録音を開始、これまでにオクタビア・レコードから5枚のCDをリリース。06年にゲルギエフ指揮マリンスキー歌劇場管と共演。05年、07年と、NHK響を指揮するアシュケナージと共演、最大級の賛辞を贈られ、シドニー交響楽団定期演奏会での共演を果たす。

 

Q まずはピアノとの出会いについてお話しください。

清水和音(以下「清水」) ピアノは気が付いたら家にあるものでしたね。あるのが当たり前の環境で育って、仕事もなんとなくピアノになっていたというか(笑)。

Q 先生はどのような方についていたんですか?

清水 最初についた先生からは、何をどう教えてもらっていたか、明確な記憶が残っていないんですよね。2人目の先生には高校3年生までついていました。この先生は、僕がピアノを辞めないようにしてくれた。僕は普通の元気な少年で、野球をしたり外で遊ぶのが好きだった。子どもの頃の自分にとって、ピアノなんてのは一番面白くないものだったし、「なんで俺だけピアノなんか弾かなきゃいけないんだ!」と思っていた(笑)。でも先生には「ピアノを弾けるというのは素晴らしいことなんだ」といつも励まされて、『もしかしたらやめてしまうのはもったいないかもしれない』と踏みとどまっていた。そのおかげで続けてこられたんです。

Q その後スイスに留学されましたが、そのきっかけは?

清水 高校を卒業してから1年ぐらい遊んでばかりいて、仕事をするわけでもないし、要するにニートをやっていたんですよ(笑)。さすがに1年ぐらいそういう状態でいると、それにも飽きてくるんです。かといってなにか手がかりがあるわけでもなかったから、先輩たちが行っている学校に自分も留学しようかなと。場所はどこでもよかったんだけれど、行った先でいい先生に巡り合えた。ただスイスという国は物価が高いし、学生が生活をするのはタイヘンだった。若者が行って面白い国でもなかったしね(笑)。

Q いつごろからプロとしてのキャリアを意識するように?

清水 いつか仕事はしなければいけないと漠然とは思っていましたよ。ただまだ19歳ですから、人生のプランができているわけでもないし、何が何でもピアニストになりたいと考えていたわけでもなかった。将来自分がどうするかなんて分からない――多くの若者と同じだったと思いますよ。

Q そして受けたロン=ティボー・コンクールで優勝して、コンサートシーンに一躍踊り出ました。

清水 いやもう売れに売れてタイヘンだった(笑)。もちろんコンクールを受けて成功すれば、仕事は入ってくるだろうとは思っていた。でもあんなに忙しくなるとは想像していなかったんです。10代はほとんど何も勉強していなかったから、弾ける曲がほとんどなかった。だから最初は自転車操業ですよ。そういう状態で何年もやっていると、だんだんイヤになってきちゃってね。いい演奏ができたときもあったかもしれないけれど、あんまりよくない状態もたくさんあっただろうし、それでもお客さんがたくさんいる中で演奏させてもらったんだから、今ではすごく感謝していますよ。

Q 周りのフィーバーぶりと自分の目指す方向とのギャップは感じましたか?

清水 あのころはいろんなことが煩わしかった、というのが偽らざる気持ちです。僕はもとからズボラな性格なのに、演奏だけじゃなくて取材からなにからいろいろ重なって面倒くさいことこの上ないわけですよ。興行をするうえで名前が売れるというのはとても重要だという理解はあるんだけれど、でもそれと音楽家としての本質には何の関係もないというのも事実だし。青臭いことを言っても仕方がないとは思いつつ……それにしても忙殺されていたな。なにせ21歳ぐらいで、同年代の連中はほとんどまだ遊んでいたわけだし、自分の忙しさが本当につらかった。

Q レパートリーもどんどん増やさなければならないし。

清水 でも自分はできるに決まっているというヘンな自信があったんです。もちろん実際にはそんなに大したもんじゃないと思い知らされるときもありましたけど。

Q 自分のキャパシティを把握し、拡げていく時期だったんですね。

清水 若気の至りを許してもらえたのがラッキーでしたね。僕はピアノをいつもずっと一人で練習してきて、仲間と一緒に演奏することはほとんどなかった。それでもいろんな人から「一緒に演奏しよう」と誘っていただいた。みんなよく我慢してくれたなと思いますよ。なにしろ自分はヘタで、なんにも分かっていなかったから。そこから一挙にうまくなることなんてないわけで、曲を覚えたり、慣れたりしなければならない期間が必ずある。その間のひどい自分を我慢してくれた演奏家たちにはひたすら感謝しています(笑)。仲間と共演するというのは、音楽家として一番楽しいことなんですよ。
 「ソリストが室内楽ばかりやるな」という意見も確かにあるわけ。でもソロでは非常にストイックな部分が要求されるし、ソロばっかりやっていたらピアノを弾くのが心底いやになっていたでしょうね。僕は、子どものころからピアノが大好きだったことなんかないんですよ。だけどやっぱりこれは楽しい仕事なんだと思えるのは、仲間と一緒に演奏する機会があるからなんです。僕の場合は立派な大ホールで一人で拍手を受けている時より、室内楽でもオーケストラでも、みんなと演奏しているときのほうが自然に思えるし、そのほうがずっと楽しい。

Q ピアノを離れて、たとえば指揮をしようとかいう願望はありますか?

清水 それは全然ない(笑)。たとえばモーツァルトのコンチェルトを弾き振りするだとか、そのぐらいのことはむしろやったほうがいいと思う。でもそれ以上のことはとてもじゃないけれど考えられない。

Q 教えることについてはどうですか?

清水 もう20年以上教えていますけれど、教える才能はないね(笑)。上手な生徒って、自分で勝手にうまくなるんですよ。そう考えると先生の役割ってなんだろうなと思う。自分が生徒の人生にちょっとだけ参加して、それによって何かしらの影響を与えたいとは思うけれども。

Q ところでNHKのラジオ番組「DJクラシック ―清水和音の痛快ピアニスト列伝―」では過去の大ピアニストをズバズバ斬って捨てているのが面白いと評判でした。

清水 自分ではズバズバ言っている意識はないんだけれど、みんな歳をとるとヘタになるということだけは言っている。これは僕の信念ですね。歳をとってよくなる演奏家はいないですよ。フィジカルがダメになるというのはダメなんです。あの番組でも、大演奏家たちの録音を若いころから追いかけて聴いてみると、全員若いときのほうがうまい。歳をとると、何か表現意図があってもそれができていないというのが先に聴こえちゃうんです。とはいえ若いころの素晴らしい演奏があるからこそ、ポンコツになっても聴いてもらえるんだと思う。

Q そこまで意識してしまうと自分の将来の不安が増すのでは?

清水 正直、自分でも厳しいと思ってますよ。たとえばアルゲリッチも最近ではソロを弾かなくなったし、アシュケナージもずいぶん前から弾いていない。彼らなんて、弾けば客が入るし、今でもある程度はちゃんと弾けるに決まっている。それでも弾かないというのは、自分でつらいんだろうなと思う。自分が納得できないだろうからやらない。その点、昔の人はいい加減だったと思うな(笑)。もちろんそれで喜ぶ人がいるんだから、それに文句があるわけではないんだけれど。

Q では和音さんもいずれソロ活動からは身をひくと?

清水 僕はそんな立派な人間じゃないから、お金がなければ働く! だけど、まったく指がまわらなくなったり、暗譜できなくなったりしたら、もう怖くて舞台に出ていけなくなるでしょうね。自分は幸運にもカラダが強いから30年間やってこれたし、すぐに全く弾けなくなるということはないでしょう。けどこの先どれだけ続けられるかは分からない。ただ、あれが欲しいこれが欲しいという煩悩がある間は働かなくちゃいけないわけで、まだ当分これはなくならないだろうね(笑)。

Q NIKONの新しいハイエンド・カメラが出るたびに欲しくなるうちは、まだピアノを弾き続けるということですね。

清水 そうそう、新製品が出たら買うのは自分の義務だと思ってるからね(笑)!

(文・構成:柴田泰正 写真:藤本史昭 協力:ジャパン・アーツ)

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