インタビュー 今井信子
王子ホールマガジン Vol.46 より 2007年から13年まで、様々な企画を通して王子ホールで室内楽の魅力を伝えてくれた東京クヮルテット。惜しまれつつ解散した彼らに続く『大人のカルテット』として王子ホールがご紹介するのが、ソリスト、室内楽奏者、そして指導者として世界的に活躍する4名の奏者からなるミケランジェロ弦楽四重奏団だ。2015年、16年の2年間、全6回にわたってベートーヴェンの弦楽四重奏曲全曲演奏会を開催する。すでにスコットランドで6回にわたるチクルスを終えている彼らだが、集中的に演奏する今回の企画に向けて意気込みを新たにしているとのこと。 |
今井信子(ヴィオラ) 桐朋学園大学卒業、イェール大学大学院、ジュリアード音楽院を経て、1967年ミュンヘン、68年ジュネーヴ両国際コンクール最高位入賞。70年西ドイツ音楽功労賞受賞。ベルリン・フィル、ロンドン響、パリ管等と共演。武満 徹<ア・ストリング・アラウンド・オータム>など数々のヴィオラのための作品を初演、献呈された作品も多い。室内楽ではクレーメル、マイスキー、ヨーヨー・マ、ミドリ等と共演。マールボロ、ラヴィニア、ヴェルビエ等国際的音楽祭への出演も多数。2003年ミケランジェロ弦楽四重奏団結成、カルテットのメンバーとしても積極的な活動を行っている。日本では<ヴィオラスペース>の企画・演奏に携わるほか、東京、ロンドン、ニューヨークでの「ヒンデミット・ヴィオラ・フェスティバル」音楽監督、日蘭交流400周年記念プロジェクトのプロデュースなどを行い、ヴィオラ界をリードする存在として活躍している。これまでにフィリップス、BIS、グラモフォン等から40を超えるCDをリリース。エイボン女性芸術賞、文化庁芸術選奨文部大臣賞、京都音楽賞、モービル音楽賞、毎日芸術賞、サントリー音楽賞を受賞したほか紫綬褒章、旭日小綬章を受章。アムステルダム音楽院、クロンベルク・アカデミー、上野学園大学などで後進の指導に当たるほか、15年10月よりマドリッドのソフィア王妃高等音楽院の教授に就任することが決定している。 |
――初めて室内楽をやられたのは桐朋学園在学中だったそうですね。 今井信子(以下「今井」) そうです。初めは斎藤秀雄先生に言われてするようになったのですが、高校3年のときなんか、ヴァイオリンの梅津南美子さんとチェロの安田謙一郎さんとほとんど毎日、弦楽三重奏を弾いていました。何をするにも一緒で、学校の必修の授業ぐらいは出るけれど、そのほかの時間は映画を観るか、ごはんを食べるか、室内楽を弾くかでしたね。授業とは全く関係なく、好きなことをやっていました。その後に自分たちで勝手に桐朋弦楽四重奏団というのを結成して、私は第1ヴァイオリンだったり第2ヴァイオリンだったり、原田幸一郎さんが第2ヴァイオリンを弾く時はヴィオラにまわったりして弾いていました。あの頃は学生たちで四重奏や六重奏など、室内楽をやるのが流行っていたんです。単位とはまったく関係のないところで自主的にやるので、楽しかったですよ。室内楽は曲が豊富だし、いい仲間に恵まれたし。まあ半分は練習というよりも遊んでたんですけどね(笑)。 |
――その後アメリカへの演奏旅行でヴィオラへの転向を決意されたのですね。 今井 21歳のときにニューヨークで行われた万国博覧会に招待されまして、桐朋の弦楽合奏団の一員として渡米しました。そのツアー中にタングルウッドの音楽祭で聴いた「ドン・キホーテ」がきっかけとなってヴィオラへの転向を決意しました。桐朋の学生にとってはヴァイオリンとヴィオラの両方を弾くのが当たり前のことなんですけど、ヴィオラに転向するとなると、これは一大事です。 |
――イェール大学からジュリアードに移って勉強されたわけですが、当時の勉強の仕方というのはどういったものだったんですか? 今井 イェールに行った当初は言葉の問題があったし、あとは音楽史や楽理も履修しなければなりませんでした。もちろん授業では何を言っているのか分からない(笑)。そんなところから始まったので、自分の演奏をどうこうする余裕なんてなくて、勉強に追われて1ヶ月ヴィオラを弾かなかった時期すらあるぐらいです。両親から合計2年以内に成果を出すよう言われていたのに、このままだと留学の成果が出ないという焦りがありました。なので残りの1年を一番有効に使うことを考えて、折角だからニューヨークで自分の腕試しをしようと。そしてジュリアードに移籍したんです。ジュリアードではとにかくたくさん弾くようにしました。学校では特待生として単位にこだわらずにやっていたので、ジュリアードでは何も資格を取っていません。その代わりにいろんな人にお目にかかったし、ホロヴィッツやハイフェッツやピアティゴルスキーといった素晴らしい人たちの音楽会をカーネギー・ホールで聴けた。懐かしい思い出として残っています。 |
――その後プエルトリコとマールボロでパブロ・カザルスのアンサンブルで演奏されたそうですね。著書『憧れ』では普段の練習では詰まるようなところも弾けてしまうというようなことが書かれていました。 今井 カザルスは指示をするというよりは体から出てくるパワーで弾かせるタイミングを分からせる人でした。音楽祭の参加者と室内オーケストラをつくって演奏したんですが、カザルスと一緒に息をして一緒に弾くという経験は価値のあるものでした。一度音楽が始まってその波に乗ると、自然と弾けてしまうんです。カザルスの指揮から生まれる勢いと拍感に乗ってみんな一緒に弾き出す――弾くというのは体で感じるものなんですね。 |
――そういった身体的な感覚が合う人と合わない人がいると思うのですが。 今井 そればっかりは生まれ持ったものでしょうね。学べることでもありません。合う人は同じ空間で息をしただけで「この人とは一緒に弾ける」という安心感がある。逆に自分にとっては息が短すぎるとか、テンションが高すぎたり低すぎたりとか、そういった部分で合わないと永久に合わないでしょうね(笑)。 |
――1973年にフェルメール・カルテットに加入されました。 今井 第1ヴァイオリンの人とはマールボロで一緒に何度か弾いていて、そのことを憶えていた彼から誘いの電話があったんです。このときはチェロも同時に辞めていたので、この間亡くなったマーク・ジョンソンというチェリストと一緒に加入しました。2人新しくなるのだからもう心機一転、初めからやり直すようなものだったので、そういった意味で溶け込む苦労は少なかったですね。 |
――新生フェルメール・カルテットが誕生してからしばらくはトレーニング期間を持ったのですか? 今井 いいえ、音楽会の予定がすでに決まっていたので、すぐに本番でした。だけどあんまり速足で歩くようなことはせず、少しずつ勉強していきました。当初はプログラムも1つだけに絞って、同じ曲を10回ぐらい、もう飽きるほど弾いていました(笑)。カルテットは非常に厳しいものでした。1つの音をめぐってみんなで討論することもしょっちゅうで、それだからこそ本番になると火花が散るようなエネルギーが出てくる。フェルメール・カルテットで5年間活動して学んだことは今の私を支えています。タイミングや音色、音量のバランスなど、そういった感覚は5年間でかなり鍛えられましたね。 |
――大学で教えつつカルテットの練習をしてらしたんですよね。 今井 その時に応じて、音楽会があればそれに向けて学校で練習したり、シカゴの街で練習したり。演奏旅行としては年に2回、ヨーロッパへの大きなツアーがあって、もちろんアメリカ国内でもずいぶん弾いていました。そのための用意をしなければならないし、教えなければならない。指導と演奏の割合はちょうど半々でしたね。 |
――カルテットとして活動していると、距離が近すぎて難しいこともあるようですが、フェルメールでの5年間を通してメンバー間の関係性はどうでしたか? 今井 フェルメール・カルテットではメンバーとプライベートで楽しいことをしたという思い出がないんですよ(笑)。ほかにも友達はたくさんいたし、その頃はもう息子もいたし、カルテットの人たちと遊ぶ機会もなければ遊ぼうという気持ちにもならなかった。5年間のカルテット生活を終えてヨーロッパに移り住むようになりましたが、その後もカルテットの曲の素晴らしさには魅入られていました。麻薬のようなもので、中毒性があるんですよね。またいつか弾きたいという気持ちはずっとあって、でも次にカルテットを組むときはプライベートも一緒に楽しめる環境でやりたいなと思いました(笑)。 |
――その後はソリストとして演奏しつつ後進の指導もなさって、そして2003年に満を持してミケランジェロ弦楽四重奏団を結成されました。 今井 第1ヴァイオリンのミハエラ・マルティンとチェロのフランス・ヘルメルソンとはいろいろな場所で会うチャンスがあって、3人で弾くこともよくありました。日本で「カザルス・ホール・アンサンブル」としてメナヘム・プレスラーと一緒に室内楽をやったときも、この2人と一緒でした。ツアーが終わるころ、あまりにも気が合うし、このままバラバラになるのは勿体ないから、誰かもう1人呼んでカルテットをやらないかと持ちかけたんです。第2ヴァイオリンを探すにあたっては、生活のペースが全然違うと練習時間を確保するのも難しいし、やはり教授職の人がいいだろうと思いました。 |
――今のミケランジェロのメンバーは一緒にいても和気あいあいとしていて、一緒に食事に行かれたりもするのですよね。常設ではなく、年に何度か合流するというスタイルが合っていると思いますか? 今井 それも難しいところなんですよね。というのは、みんなそれぞれたいへん活躍していて、世界中を飛び回っている。ミハエラもダニエルもいろいろなところで弾いています。そういう活動を制限すると私たちの良さが出なくなってしまうと思います。私たちは他の活動もやっているからこそユニークな存在になれるわけで、それを活かしながら、それでもしっかりと練習をしないといいものが出てこない。いつも集中してやっています。 |
――去年スコットランドでベートーヴェンの弦楽四重奏曲を全曲演奏なさいましたね。 今井 スコットランドではまとめて演奏するのではなくて、単発の演奏会を6回やりました。スケジュールの都合上どうしてもそうするしかなかったから。今度王子ホールでは3公演ずつまとめてやりますけれど、その後でもう一度スコットランドでいっぺんに演奏します。今から覚悟しておかないと(笑)。 |
――ベートーヴェンの全曲演奏をしたいというのはカルテットのメンバー共通の想いだったのですか? 今井 それはもう、宝物に触れるような気持ちですよね。音楽家である以上は、ああいうものを追求したいし、追求しなければという気持ちになります。到達できないだろうけど、それでも挑戦しないではいられない。やってやろう、という気持ちです。やればやるほどその偉大さを感じます。どれもこれも違うんですよ。いつも新発見があるし、学ぶことが多いんです。 |
――スコットランドで全曲を弾き終えても、まだ掘り下げたいという気持ちになったわけですね。 今井 むしろベートーヴェンを掘り下げていくのはこれからだ、という気持ちです(笑)。 |
――Op.18の6曲はすでに録音されていますが、そのほかの作品もレコーディングされる予定ですか? 今井 やりたいんですけれど、まだ具体化には至っていません。やるとしたら年代順に入れていきたいですね。Op.59-1はもう録音したんですが、ほかがまだです。録音の条件などもあるし、なかなか今の時期は大変ですけれど、いつか達成します! |
――ベートーヴェンの全曲演奏会を経て、その先の目標はなにか見据えていますか? 今井 いろいろな話はしています。私たちは全員出身国が違うので、たとえばミハエラの故郷であるルーマニアのエネスコ、フランスの故郷スウェーデンのステンハンマル、日本だったら細川俊夫さんの作品など、そういうお国ものをやろうというアイディアがあったりもします。私たちは常設のカルテットではないので、限られた時間で積み上げていかなければなりません。あれもこれもというわけにはいかないんですよね。バルトークをやりたいとか、そういう願望もあるんですけれど、まずはこのベートーヴェン・チクルスですよね。自分たちには挑戦する義務があると思っています。 (文・構成:柴田泰正 写真:藤本史昭 協力:AMATI) |
【公演情報】 <第1日> 2015年2月24日(火) 19:00開演(18:00開場) 全席指定 各日6,500円、3公演セット券18,000円 |