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王子ホールマガジン 連載

 

王子ホールマガジン Vol.47 より

 「メロディ・アット・ナイト、ウィズ・ユー」キース・ジャレット

 キース・ジャレット(p)

 1998年 ニュージャージー“ケイヴライト・スタオジオ”で録音

 1996年、秋。それまで他の追随を許さない圧倒的な演奏で名声をほしいままにしてきたキース・ジャレットは、突然の病のため一切の活動を休止します。病名は慢性疲労症候群。立って歩くこともできないほどの激しい倦怠感に加え、微熱、関節痛等々が長期にわたって続くこの病は、今もって原因も効果的な治療法も発見されておらず、重篤化すると寝たきりになってしまい食事も自分で摂れなくなるという危険性をはらんでいます。
 一説によればこの難病、日常的に激しいストレスにさらされ、物事に強いこだわりを持つ人が罹りやすい傾向にあるとのことですが、それをきけば「ああ、なるほど」と得心する方もいるかもしれません。ご存知のようにキースの演奏の大きな特徴は、あらかじめの約束事やプランを設けない「一回性」にあります。とりわけソロ・ピアノのパフォーマンスにおいては、彼は完全に“無”の状態で楽器に向かう――つまり演奏が成立するかどうかは神のみぞ知るというわけで、そのプレッシャーたるや凡人の想像をはるかに超えるものに違いありません。
 そういう環境の中に長年身を置き、しかも毎回あれほど完成度の高い演奏を実現させるのですから、心身の両面にダメージが蓄積するのは無理からぬこと。完璧無比なテクニックと、独創的で大胆な創造行為ゆえに、我々はついキースに対し何物にも脅かされない超人的な印象を抱いてしまうのですが、その実彼は、デビューしてから絶え間なく、(音楽家として)生きるか死ぬかギリギリの綱渡りを無意識のうちに続けていたのでした。
 「ピアノの蓋を開ける力もなく、楽器を見ることさえできなかった。音楽をきけば、それだけでエネルギーを吸い取られる。まるで身体をエイリアンに乗っ取られたようで、ずっとイスに座ってただ芝生を眺めるという生活だった」…そんなキースを支え続けたのが、妻のローズ=アンでした。彼女の心からの献身に対して、なんとかして感謝の気持ちを示したい……そう考えたキースは、自宅のスタジオにこもって妻のために演奏を録音しはじめます。
 もちろん病のため長時間は弾けないし、症状が悪化すれば何日も何週間も中断することもしばしばでした。それでも彼は、妻を思う気持ちで自らを叱咤し、少しずつ少しずつ演奏を録りためていきました。それはおそらく自身を癒す行為でもあったのでしょう。長いトンネルの向こうに見える微かな光が少しずつ大きくなるように、彼は病に折り合いをつけながら次第に元の自分を取り戻していきます。そしてその年のクリスマス、キースはローズ=アンにリボンをかけた小さな録音テープを手渡します。収められていたのは「メロディ・アット・ナイト、ウィズ・ユー」。そう、今回ご紹介するこのアルバムでした。 これを最初にきいた時、僕がまず驚いたのは、そのシンプルさでした。それまでのキースの演奏は、無尽蔵とも思えるイマジネーションを駆使して、楽曲を大胆に解釈し即興を展開していくというもので、トリオでスタンダードを演奏する際にはステージのたびにリズムやテンポ、構成が異なり、またソロ・パフォーマンスは1曲が20分を超えることも珍しくありませんでした。ところがここでの彼は、フェイクやアドリブは必要最小限に抑え、多くの曲ではテーマだけを淡々と奏でているのです。
 しかしながら、その音楽のなんと感動的なことか! あまり有名ではない、しかし独特の審美眼で慎重に選ばれたであろうスタンダード・ナンバーや古い民謡の美しいメロディを、キースはまるで1音1音を慈しむかのように織り上げていきます。そこには、天才であるがゆえに時折見せる傲慢さも、創造に対する獰猛なまでの餓えも感じられません。あるのは、今の自分にできる精一杯の音楽を愛する人に届けたいという思いのみ。実際、キースは当初これを公に発表するつもりはなかったそうで、それゆえにかここに収められた演奏は、ほかの彼の作品にくらべると完成度の点で劣るところもあるのですが、しかしだからこそ――完成度にとらわれない無垢な感情の発露が手に取るように見えるからこそ、この音楽はきく者の心を激しく揺さぶるのだと僕は思うのです。
 不幸に直面し、自分の弱さに向き合い、身近の人の愛に触れることで、人間はより大きくなれる……稀代の名ピアニストが音で綴ったラヴ・レターは、そんなことを教えてくれます。

著者紹介

藤本史昭/1961年生まれ。上智大学文学部国文学科卒。写真家・ジャズ評論家として活動。「ジャズ・ジャパン」誌ディスク・レビュアー。共著・執筆協力に『ブルーノートの名盤』(Gakken)、『菊地成孔セレクション~ロックとフォークのない20世紀』(Gakken)、『ジャズ名盤ベスト1000』(学研M文庫)などがある。王子ホールの舞台写真の多くは氏の撮影によるもの。
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