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王子ホールマガジン 連載

ピアノという仕事Vol.20 スーザン・マノフ

王子ホールマガジン Vol.49 より

主に歌曲の伴奏者として名高いスーザン・マノフ。去る5月に共演したソプラノのサンドリーヌ・ピオーとは「Apres un reve」「Evocation」という2枚のアルバムをリリースしている。前者は幻想と現実、生と死、愛と別離など、生きて在ることのリアリティを描いた作品、後者はヴェールを隔てて想起される『女性』の姿が縦糸となっている。ピオーとは3部作としてのアルバム制作を考えていたとのことで、3作目は早ければ年内にレコーディングの予定。「より神話的な世界を描きたい」と語るそのアルバムのリリース、そして同プログラムを引き下げての再来日が待たれる伴奏のスペシャリストに、ピアノとのかかわりについて語ってもらった。

スーサン・マノフ(ピアノ)

ラトヴィア人とドイツ人の血を引き、ニューヨークに生まれる。ピアノをマンハッタン音楽院とオレゴン大学で学ぶ。また、グウェンドリン・コルドフスキーに師事し、ドイツ歌曲とフランス歌曲のレパートリーを学んだことにより、この分野において同世代を代表する人気ピアニストの一人となった。活動は声楽のみならず多岐に渡っており、室内楽奏者として世界各地の著名な音楽祭、主要ホールにて演奏している。アーティストからの信頼も厚く、サンドリーヌ・ピオーをはじめ、ヴェロニク・ジャンス、パトリシア・プティポン、ネマニャ・ラドゥロヴィッチ等と共演を重ねている。録音も数多く、いずれも高い評価を得ている。忙しい演奏活動と並行して、パリ国立高等音楽院の教授として後進の指導にもあたっている。

Q  まずは音楽、そしてピアノとの出会いについてお話しください。

スーザン・マノフ(以下「マノフ」) うちは女性ピアニストの家系で、祖母はリガのオペラ劇場で働いていた時期があり、室内楽や歌手との共演が何よりも好きでした。母とその双子の姉は、祖母の影響でピアノを始めました。私は母や祖母の演奏を間近で聴いていたので、小さいときから自然に鍵盤楽器を愛するようになっていました。自分で弾き始めたのは3歳ぐらいからです。私にとってピアノはゲームであり、秘密の花園でした。楽しくて謎に満ちていて、様々な音色や肌触りに魅了されました。幸い私は幼稚園に行かず自宅で母と一緒に過ごしていたので、小学校に入るまでにある程度ピアノが弾けるようになっていました。小学校に入ってからは音楽教室で週に1回楽譜の読み方を学んだりして、その後8歳になるとマンハッタン音楽院に通うようになりました。

Q マンハッタン音楽院ではどのような勉強をしたのですか?

マノフ 音楽院には素晴らしい先生がいて、技術を身につけさせるのはもちろんですが、何よりも音楽の歓びを教えてくれました。自分の楽器を学ぶだけではなく、コーラスで歌ったり、自分たちでオペラを上演したり、他の楽器の生徒にピアノを教えたり、舞台に出たりといった経験もできました。クラスにはいろいろな年齢の生徒がいました。ピアニストも作曲家もチェリストもヴァイオリニストもいた。14歳のときに、7歳の天才が作曲したピアノ曲を演奏したこともあります。7歳の子に「ちがう、弾き方はそうじゃない!」なんて言われながらね(笑)。ピアノ三重奏やピアノ四重奏、連弾、2台ピアノ、2台ピアノ連弾などさまざまな室内楽に親しみました。

Q その後オレゴン大学に進学後、パリに留学されましたが、どういった経緯で渡仏を決めたのですか?

マノフ 20歳のときに、親友の歌手と一緒にマスタークラスでも行ってみようかと思って、オレゴン大学でグウェンドリン・コルドフスキーのマスタークラスを受講しました。彼女はロッテ・レーマンをはじめ錚々たる歌手と共演を重ねてきた素晴らしいピアニストで、世界中でマスタークラスを開いていました。すでに70代半ばで、誰よりもきれいな目をした小柄な女性でした。このとき私は歌曲のレパートリーとコルドフスキー先生に惚れこんでしまったんです。いつの日かこんな人間になりたいと思わせる方でした。これがきっかけとなって歌手と共演をするようになり、コルドフスキー先生を追っていろいろなマスタークラスに顔をだすようになりました。彼女は今でも私のお手本です。
 その後私はペトリ奨学金コンクールというコンクールに優勝して、海外留学の奨学金を得ました。当時はフランス語を学び、アルド・チッコリーニの教えを受けたいと考えていたので、奨学金でパリ高等音楽院に留学しました。ですがチッコリーニは私と入れ替わりにニューヨークに引っ越してしまったので(笑)、結局チッコリーニの指導を受けることはなくなり、ノエル・リーにソロを、そしてウド・ライネマンに伴奏法を学びました。

Q プロとしての活動はどのように始まったのですか?

マノフ 学校で多くの若手歌手と知り合ったことで、少しずつフランスの声楽界に入り込んでいきました。パリやその近郊の小さな会場でソロ・リサイタルをしたり、子供たちにピアノを教えたりする一方で、歌手と演奏する機会も増えていったんです。それから知人を介してコロラトゥーラ・ソプラノのリタ・シュトライヒと知り合うことになりました。彼女はマルセイユで指導をしていて、私もそこで1年間コレペティトゥアを務めました。この時期になると活躍している歌手とも多く共演するようになりました。翌年はパリのオペラ学校で働くようになり、クリスタ・ルートヴィヒやハンス・ホッターともよく仕事をしました。こうした活動を続けるうちに各地で歌手の知り合いが増え、テレビ出演もするようになりました。パトリシア・プティボンとはテレビ収録を通じて知り合い、今日までずっとパートナーシップが続いています。ヴァイオリンのネマニャ・ラドゥロヴィッチとは彼がまだ16歳のときからの仲だし、サンドリーヌ・ピオーは大事なパートナーであり親友であり、姉妹のような間柄です。ひとつの縁が別の縁につながって今の私があるわけです。

Q 今や伴奏ピアニストとして多くのアーティストやプロモーター、そしてオーディエンスからも信頼されています。

マノフ 伴奏者としての生命線のひとつは、他者のスピリットを尊重することです。自分にとって伴奏とは「共に歩む」ことであり、「共に行く」こと。伴奏という言葉が持つこういう側面は、忘れられがちです。伴奏者は透明人間ではないし、目立ってはいけない人間でもない。日本ではその点が深く理解されていると感じます。歌手とピアニストのデュオとして聴いてくれる。自分は伴奏者として、テキストに忠実であること、自分が読み取った作品の本質を提示することが大切だと考えています。でもそこには柔軟性が必要です。共演する歌手はそれぞれ個性も声質も志も違います。自分のエゴを横に置いて、その人たちと共に、「私たちの想い」として演奏したいと常々考えています。
 私が共演する歌手はバロックの経験が豊富な人が多くて、小さな音量のアンサンブルとの共演に慣れているから、よく聴いて溶け込むという作業に慣れています。声を重視する歌手、テキストを重視する歌手、演劇性を重視する歌手などいますけれど、私のなかにも多様性はあるし、だからこそ共演者に寄り添っていろいろな小径を歩くことができる。フォーレの《月の光》ひとつをとっても、共演する相手によってまったく異なる演奏になるし、同じ言葉が様々な聴こえ方をする。ピアノで詩人の言葉を語るには、柔軟であること、そして自在に呼吸をすることがとても大事です。私はそれを、歌手との共演から学びました。若いデュオをみていると、2人とも「自分のベストの演奏」をするので手一杯になって、お互いの呼吸に耳を傾けていないケースが少なからずありますね。

Q マノフさんは教師として多くのピアニストや歌手を指導してきました。

マノフ 先ほども言いましたが、最初は授業の一環として学友に教えるところからはじまって、学生時代は子供たちに教えるようになり、コレペティトゥアとして歌手のコーチングをするようになって、今ではパリ高等音楽院の教職におさまりました。今はできる限りマスタークラスを開こうとしていて、この先何年かかけて世界各地でマスタークラスの基盤をつくりたいと考えています。音楽的自由を追求できる開かれた環境をつくり、表現する勇気や積極性をはぐくみたい。生徒には楽譜に書かれていること、そして楽譜の先に存在していることに向き合い、思い切って表現する勇気を持ってほしいですね。その作品が何を意味し、自分はそこに何を見るのか。それは自分にどう働きかけてくるのか。そして自分がキャンバスとなってその意図を伝える覚悟があるのか。とにかく大切なのは彼らにもっと自由になってもらうことです。
 どの国であれ、学生たちが必要としているのは自分の内面と向き合うのを助けてくれる存在でしょう。生徒のやることなすことを否定し、生徒を操って自分のエゴを満足させようという、ゆがんだ教師と関わった経験がある人は多いと思いますが、反対に自分が信頼する先生に褒められてばかりいるというのも心配です。外の世界で大いに挫折することにもなりかねませんから。若い人たちには、教師の人格とその教師が与える情報を分けて考えてほしいですね。時としてあまりそりの合わない先生から大きな収穫を得ることだってあるし、素晴らしい人格の先生ではあるけれど、学ぶべきものがまるでないことだってある(笑)。
 私が若い世代に伝えたいのは、自分たちの能力を開拓することの大切さです。音楽との関わり方、他者との関わり方を開拓し、自在に対応できる基礎能力を身につけること。好奇心を持ってあらゆる音色を探り、無音と隣り合わせの弱音に挑み、恐れることなくピアノを鳴らせるようになってほしい。

Q ピアノをキャリアとすることについてはどうでしょう?

マノフ 生徒たちにはよく言っているんですが、面白くなさそうだからと仕事の話を断ったりしないこと。何がきっかけになるか分かりませんからね。取るに足らないコンサートなんてものは存在しません。キャリアについてですが、かつてある生徒に「ピアノをキャリアにできるでしょうか?」と訊かれたことがあります。なんと答えるべきか迷いました。もしそれが「自分のやりたいことをやる」という意味ならば、やればいいわけだし(笑)、キャリアと名声を同一視するのであれば、名声とはなんだろうという話になる。私個人はいわゆる名声を望んでいません。名声には大きな代償が求められるから。自分にとって大事なのは、自分を理解することであり、周囲の人々に私を理解してもらうことであり、自分の生涯を通じて他者を理解することです。仲間の美点を認識し、彼らの強さと弱さに寄り添えるようになりたい。仲間が弱っていたり恐れを抱いているときには支えになりたいし、自分の調子がいまひとつのときは仲間に頼れるようになりたい。そしてこうした活動を通じて生活の基盤を築くことができれば、それが私にとっての理想のキャリアです。私という人間の性格上、自分一人で何かをするのではなく、常に誰かと歩みたいという意識があります。自分だけが前面に出て目立ちたいとは考えていません。

Q これからのピアノとの付き合い方についてはどうお考えですか?

マノフ 私は3ヶ月前に母を亡くしました。その体験を経て自分のピアノ観や音楽観がまたひとつ変わったような気がします。私たちピアニストは「なぜピアノで演奏するのか」、「ピアニストとしての自分は何に影響を受けたのだろうか」と自問することがあります。私の場合は自分の家庭環境であり、そして常に私に歓びをもたらしてくれる「人間の声」の存在が大きい。母が私に伝えてくれたものを思うとその大きさに圧倒されますが、音楽もその一部です。人は生まれて、やがて死ぬ。いつその人がいなくなるかは分からないけれど、自分の中に持っているものを伝えることで、それが残る。私にとっては、それがピアノであり、音楽なんです。
 ピアノは自分にとって、常に情熱を傾けられる場所でした。でも人生のある時期、ピアノを憎らしく思ったことがあります。ピアノがあまりにも大きなウェイトを占めていたからです。人生でやりたいことはたくさんあるし、探究したいことは語りつくせないほど多いのに、「そんな暇はないぞ」とピアノに言われているような気になってしまう。もちろん実際のところ、自分のコンディションを維持して、必要な練習が普段からできていれば、数日間ピアノを触らなくても大丈夫なはずなんです。なのにピアノを触らなければという使命感があるものだから、「ピアノをしばらく放置すれば、新たな自由を見つけられるのではないか」と想像して悶々としていました。
 もちろん、単純に難しいからピアノが嫌になることだってあります。弾くのが困難な曲は間違いなくある。死ぬまでラクに弾けるようにはならないだろうなと思う作品もあります。最後の最後まで気が抜けなくて、どれだけ練習しても難しい。弾くたびに出産をするような苦しみを経験する。あの苦しい曲をまたひと通り弾かなければならないのかと思うと、肉体的な負担と精神的重圧がのしかかってきます。それでも自分の弱さと向き合って、挑まなければならない。自分の弱さは必ずしも克服できるものではないけれど、すべてを克服することなど不可能だと開き直ることも大事です。そのうえで生きていく。それを踏まえたうえでステージに出ていく。自分に弱点があるからといって、ピアノを弾くことを恐れてはいられません。自分と他者を受け入れて前進するしかないんです。

(文・構成:柴田泰正 写真:藤本史昭 協力:日本アーティスト)

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