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インタビュー フェリシティ・ロット

王子ホールマガジン Vol.32 より

「王子ホールのオーディエンスは見事に集中して聴いてくださって、信じられないことに誰一人咳をしなかった! ステージに出て行ったときには温かい拍手で迎えられ、皆さんの歓迎ぶりを肌で感じました。震災直後の難しい時期に日本へ行くというのは簡単な決断ではありませんでしたが、この時期に皆さんと共にいられたことを光栄に思います。東京でグレアムと一緒に開いたこのリサイタルは、ずっと思い出に残ることでしょう」。
 2011年4月、昼夜を問わず余震の続くなか、意外にも遅い日本リサイタル・デビューを飾ったデイム・フェリシティ・ロットは、公演後にこのようなコメントを寄せてくれた。この夜の演奏会は出演者のみならず、客席のオーディエンスにとっても舞台裏のスタッフにとっても、そしてNHKの番組を視聴した人にとっても記憶に残るものになっただろう。本誌では思い出に残るリサイタルを開いてくれた名ソプラノの思い出話を、少しだけご紹介したい――

フェリシティ・ロット(ソプラノ)

生まれも育ちもイギリスのチェルトナム。ロンドン大学ロイヤル・ホロウェイ・カレッジでフランス語を専攻(現在、名誉フェロー)、英国王立音楽アカデミーで声楽を学ぶ(現在、フェロー)。オペラ・レパートリーはヘンデルからストラヴィンスキーまで広範囲にわたっているが、とりわけモーツァルトとシュトラウスの作品において世界的に高い評価を得ている。英国ロイヤル・オペラ、グラインドボーン音楽祭、バイエルン国立歌劇場、ウィーン国立歌劇場、バスティーユ・オペラ座、オペラ・コミック劇場、シャトレ座、パリ・オペラ座、メトロポリタン歌劇場など、その活躍は枚挙にいとまがない。世界の一流オーケストラと著名指揮者のもとで数多くの共演を果たしているほか、The Song Makers' Almanacの創立メンバーであり、ザルツブルク、プラハ、エディンバラ、ベルゲン、オールドバラ、ミュンヘンの音楽祭をはじめ、ウィーンのムジークフェライン、コンツェルトハウス、パリのサル・ガヴォー、オルセー美術館、オペラ・コミック劇場、シャトレ座、シャンゼリゼ劇場などでリサイタルを行っており、ロンドンのウィグモア・ホールとは特に密接な関係を保っている。今までに数多くの名誉ある称号を授与されており、オックスフォード、ラフバラ、レスター、ロンドン、サセックス大学、グラスゴーの王立音楽アカデミーの名誉博士号。英国王室から1990年新春に大英勲章第3位、96年にデイムの称号。2003年2月にバイエルン宮廷歌手の称号。フランス政府からはフランス芸術文化勲章オフィシエおよびレジオン・ドヌール勲章シュヴァリエを授与されている。94年、クライバー/ウィーン国立歌劇場の日本公演でR・シュトラウスの「ばらの騎士」の元帥夫人で初来日。09年10月には、プレヴィン/NHK交響楽団・定期公演に出演し、11年4月には3度目の来日にして日本初となるリサイタルを開催した。

 

非公式デビュー・アルバム

デイム・フェリシティは早くから音楽に親しんでいたが、クラシックだけというわけでも、歌だけというわけでもないようで、広く音楽全般を楽しむ家庭環境だったという。
 「両親はアマチュアでしたが音楽を楽しんでいて、母は歌をうたって、父はとっても下手なピアノを弾いていました(笑)。第二次世界大戦中はイギリス各地で慰問活動を行っていたそうです。父がフランク・シナトラとかミュージカルの曲を挟んだ、ちょっとしたミュージカル仕立ての脚本を書いて、母が歌うんです。家には少しですけれどクラシックのレコードもありました。エリザベート・シュヴァルツコップやジョーン・サザランドのアルバムがありました。私も父もヴァイオリンを少しやっていて、時には非常にお粗末なヴァイオリン・デュオを楽しんでいましたよ(笑)」。
 そう冗談めかして言うものの、学校のオーケストラでは第2ヴァイオリンの首席を務めていたというから、そこそこの腕前だったようだ。
 「幸い学校では音楽の授業が充実していました。私が生まれ育ったチェルトナムという町は音楽の盛んなところで、町が主催する音楽コンクールが毎年行われていましたし、最近では現代音楽のフェスティバルをやっています」。
 オーケストラだけでなく学校と教会の聖歌隊でも歌っていたというデイム・フェリシティ。実は驚異的な若さでアルバム・デビューを飾っている。
 「最初の歌の先生は母でした。私と一緒に歌ったり、自分で歌ってお手本を示してくれました。それに両親はレコーディングも残してくれたんです。一番古いものは《赤鼻のトナカイ》と《アウェイ・イン・ア・メインジャー》の入ったもの。祖母へのクリスマス・プレゼントとして両親が作ったそうです。私が2歳のときの録音で、音程は合っていたけれど、とりたてて面白い解釈とは言えないものでしたね(笑)」。

フランス語を使う仕事

今回のリサイタルでも明瞭この上ないディクションでオッフェンバックによるフランス語のアリアを披露してくれたデイム・フェリシティだが、幼いころからこの言語を愛してやまなかったという。
 「それも母の影響です。学校でフランス語の授業をとり始めたのを機に、母は週に一度だけ、食事の間ずっとフランス語を話す日を作ったんです。これが私にとってはすごく楽しくて、大学を卒業したらフランス語を使った仕事をしたいと思うようになりました。まさかフランス語の歌をうたうのが仕事になるとは想像していませんでしたが」。
 当初は通訳や翻訳の仕事をしようかと漠然と考え、フランスに留学したとのこと。
 「フランスに1年留学したとき、歌のレッスンも受けていたんです。『もう少し歌をがんばれば、歌手としてやっていけるかも』と先生がおっしゃったので、トライしてみることにしました。そして幸い1年間、ロンドンの王立音楽院の奨学金を受けられるようになったんです。皆よりも年長の学生でしたけど、学内オペラのキャストとして声をかけていただいて、『魔笛』のパミーナや『コジ・ファン・トゥッテ』のドラベッラを歌いました」。
 この王立音楽院で、盟友のグレアム・ジョンソンとも出会った。
 「当時はフローラ・ニールセンという素敵なメゾ・ソプラノの先生にレッスンを受けていて、グレアムはそのピアノを受け持ってくれました。それからもう40年以上も一緒に演奏しています。人生の豊かさはどんな人と出会うかで大きく変わってきますが、グレアムと出会ったことは私の財産です。クラシックだけでなくあらゆる音楽に興味を示す人で、昔から『この曲をさらってみなよ』と言ってはどっさり楽譜を渡してくれます(笑)」

ソングメイカーズ・アルマナック

そのグレアム・ジョンソンが立ち上げたソングメイカーズ・アルマナックという歌曲の演奏グループがある。フェリシティ・ロット(ソプラノ)、アン・マレー(メゾ・ソプラノ)、アンソニー・ロルフ・ジョンソン(テノール)、リチャード・ジャクソン(バリトン)、そして企画・プログラム構成はグレアム・ジョンソン(ピアノ)。彼らの存在は歌曲リサイタルの在り方に一石を投じるものであった。
 「このグループはグレアムのアイディアでした。歌手を選んだのも彼です。私とグレアムは音楽院で一緒だったし、彼の師匠であるジェラルド・ムーア先生がアン・マレーを推薦してくださった。アンソニー・ロルフ・ジョンソンがピエール・ベルナックのマスタークラスで歌うのを聴いて、彼にも声をかけました。そして私もグレアムも共演して感銘を受けたリチャード・ジャクソンが入ってメンバーが固まりました。全員、音楽への姿勢が共通していたんです。」
 グループはウィグモア・ホールを拠点として活動を始めた。
 「悲しいことですけど、シュヴァルツコップやフィッシャー=ディースカウだったらホールはすぐ満員になりますが、知らない歌手のリートをわざわざ聴こうという人はいません。でもグレアムは歌曲リサイタルを、それまでと異なる方法で提示しようと考えたんです。1人のスターがやるリサイタルではなく、2人とか3人のそれほど有名ではない歌手を使って、プログラミングに工夫を凝らした演奏会をしようというのです。最初のコンサートは笑いを求めた内容で、お客さんに音楽で笑ってもらおうというのが狙いでした。でもそれを快く思わない方もたくさんいました」。
 クラシックの演奏会で笑いを求める演出をすると、「不真面目だ」、「けしからん」と考える人間は今でもいる。
 「でも人を笑わせて、楽しい気持ちにさせられるなんて素敵なことだと思います。もちろん期せずして笑われる結果になるのはつらいことです(笑)。確かにクラシックの演奏会で初めから終わりまでコミカルなことをやるのはいい考えとは言えません。けれども軽い、面白い曲をやった後で情感に訴える曲を演奏すると、その効果は倍増します。シェイクスピアの悲劇に道化役が出てくるのも同じ理由でしょう」。
 そうして練りあげたプログラムを定期的に披露するうちにリピーターも増えていった。彼らとともに、歌曲演奏会の姿も成長していったといえるだろう。
 「今でも家の壁に自分が出演した回のプログラムをすべて飾っているんですよ。残念ながら今では私たちが出演することはなくなってしまいましたけど、グレアムは今でも若い歌手と意欲的なリサイタルを企画しています」。

伝説の「ばらの騎士」

「ここ数年はオッフェンバック作品に出演して、充実した時間を過ごしています。ただオペレッタが大好きだと公言して回ったのは、キャリアを考えるとマイナスだったかもしれません。その後オペラのオファーがめっきり減ってしまったので(笑)。オペレッタではマルシャリンの完璧な立ち姿を常にキープしなくてもいいし、舞台上で多少の悪ふざけをしても許されるから、とても楽しいです。」
 そう語るデイム・フェリシティだが、カルロス・クライバー指揮/ウィーン国立歌劇場の「ばらの騎士」で彼女が演じた元帥夫人が忘れられないという日本のファンは実に多い。彼女自身にとっても1994年の来日公演は印象深いという。
 「素晴らしい経験をしましたよ。カルロス・クライバーという人も素晴らしかった。ウィーン公演で録画を終えて、プレッシャーから解放された状態での日本公演だったので、カルロスもすっかりリラックスしていました。ディズニーランドで遊んだり、本当に楽しい時間を過ごしていたみたいですね。彼の指揮は見ているだけでも美しいもので、絵筆で音楽を描くような指揮でした。ある友人はニューヨークであのオペラを観て、『室内楽みたいで面白くない』という感想を漏らしていましたが、私たちにとってはまさに『室内楽みたいだから面白い』んです。日本公演の後、カルロスと会う機会はありませんでしたが、彼は素敵な手紙を何度も送ってくれて、私を勇気づける言葉をたくさん書いてくれました。他の指揮者の悪口もたくさん書いてありましたけど(笑)! 私はいつも不安を抱えているし、自信を与えてくれる人がいないと重圧におし潰されそうになってしまう。でもカルロスはそんな私にいつも温かいエールを送ってくれました。特別な人です」。
 王子ホールの楽屋前の廊下には、過去の出演者の写真とサインが並べられている。「2004年10月15日 バーバラ・ボニー」。「2006年4月6日 アンネ・ソフィー・フォン・オッター」。なつかしい「ばらの騎士」の仲間の写真を見たデイム・フェリシティは、「マルシャリンはいつもひと足遅いのよ」と言ってほほ笑んでいた。
 しかしこの4月、彼女は約束通りに日本を訪れ、歌ってくれた。
 「私は昔から自分が役立たずの人間なのではないかと不安に思うことがありました。自分はただ歌をうたうことができ、歌をうたうことが好きなだけ。でもときにはその歌によって困難な状況を耐える力を与えられたと言ってくださる人がいます。これからも自分にできることを続けていくだけです」。

(文・構成:柴田泰正 写真:藤本史昭 協力:ムジカキアラ)

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