トピックス

王子ホールマガジン 連載

ピアノという仕事Vol.12 イタマール・ゴラン

王子ホールマガジン Vol.40 より

第一線の室内楽奏者として名だたるソリストから厚い信頼を置かれているイタマール・ゴラン。王子ホール主催公演ではこれまでに3度、庄司紗矢香のパートナーとして登場し、昨年11月にはジャニーヌ・ヤンセンと充実した演奏を届けてくれた。弱冠21歳で教壇に立つようになり、パリ音楽院では約20年にわたって教え続けている名指導者でもある彼は、小さいときから優秀ではあったが優等生ではなかったようで、ピアノを放棄した時期すらあったという――

イタマール・ゴラン(ピアノ)

リトアニアに生まれ、1歳のときに家族でイスラエルに移住。7歳で音楽を学び始め、ボストンのニューイングランド音楽院より完全奨学金を受けて学ぶ。当初から室内楽に力をいれていたが、ソリストとしてメータ指揮イスラエル・フィル、ムーティ指揮ウィーン・フィル、マゼール指揮フィルハーモニア管等の一流オーケストラと共演している。またワディム・レーピン、マキシム・ヴェンゲーロフ、ジュリアン・ラクリン、シュロモ・ミンツ、ジャニーヌ・ヤンセン等のアーティストと共演を重ねている。国際音楽祭にもしばしば参加し、レコーディンはドイツ・グラモフォン、テルデック、EMI他から多数。1991年にマンハッタン音楽学校の教授陣に指名され、史上最年少の教師となる。94年よりパリ音楽院で室内楽を教えている。現在パリ在住。

 

Q リトアニアで生まれてイスラエルに移住されたということですけれども、音楽との出会いはいつでしたか?

イタマール・ゴラン(以下「ゴラン」) 母は元ピアニストで、私が生まれてからはイスラエルのロシア語新聞で音楽批評を書くようになりました。そのため小さいころから母に連れられ、バスで1時間ほどかけてテルアビブまでコンサートやオペラを鑑賞しに行っていました。それがクラシック音楽との出会いですね。イスラエルは小さな国ですが、私が記憶している限り昔から非常に音楽が盛んでした。ユダヤ系の音楽家はもちろん、ズービン・メータをはじめ国籍や宗教に関係なく優秀な音楽家がたくさんイスラエルを訪れていました。

Q 実際にピアノを弾き始めたのはいつからですか?

ゴラン 5歳ぐらいです。自宅にはツィンマーマン社製の小さなアップライト・ピアノがありました。これは家族がリトアニアから移住するときに持ち込んだものです。当時、ソ連からイスラエルに移民する際は、貴重品をほとんどすべて置いていかなければなりませんでした。けれどもピアノなどの楽器だけはどうしても持っていきたいと希望する人が多く、その許可をとりつけたという経緯があります。それだけ音楽が大事だったんです。
 ピアノを教えてくれたのは母ですが、私にピアノを弾くよう勧め、ピアノのプロになるよう奨励してくれたのは父でした。父は音楽家ではありませんが、音楽を心から愛していて、仕事から帰ってくると私の練習に耳を傾けたり、即興演奏をリクエストしたりというのが日常でした。即興演奏はまったく得意ではなかったけれど(笑)。

Q 小さいころは練習熱心なほうでしたか?

ゴラン 決して練習が大好き、音楽が大好きという子どもではありませんでした。さんざん尻を叩かれてようやくピアノに向かうときもありました。ピアノを練習するよりも外で友達と遊んで、いわゆる「普通」の子供として過ごしたいという想いが常にあったんです。コンサートを聴きに行きたくないと駄々をこねたのも1回や2回ではないし、オペラが退屈で居眠りをすることだってあった。自然に音楽を愛するようになったとは決して言えません。でも親もさるもので、おとなしくコンサートを聴いたらご褒美にお菓子を買ってくれるだとか、いろいろな手を使っていました。おかげで今の私があるわけですから、感謝しています。

Q 早くからアメリカのニューイングランド音楽院に入学されましたよね?

ゴラン はい、14歳のときでした。自分にとって留学して遠くへ行くというのは夢だったし、それは父の願望でもありました。一人っ子である自分があれだけ若い年齢から留学できたわけですから珍しいケースですよね。でもその14歳のときに、音楽を一時ストップするという危機も訪れました。当初から素晴らしい先生に指導を受ける機会に恵まれていたのですけれど、自分には学ぶための準備ができていなかったように思います。一種の内部崩壊をしてしまって、ピアノを完全に放棄してしまったんです。そして音楽とはかかわりのないところに興味が移ってしまった。世界中を旅してまわりたいという願望にとらわれたり、哲学的・宗教的な思索にのめりこんだり、やたら疎外感を味わったり、自分探しをしたり……そうしてピアノをまったく、あるいはほとんど弾かない時期を数年間過ごし、イスラエルに帰国しました。

Q アメリカにはどのぐらいいたのですか?

ゴラン 4年間です。イスラエルに戻ってからもう一度ピアノと向き合うようになりました。ゆっくりと時間をかけてリハビリをしていったような感じですね。その後再びアメリカに渡り、教職を得て、演奏活動もするようになりました。

Q 21歳という異例の若さでマンハッタン音楽院の教員として教えるようになりましたね。

ゴラン ええ、最も若い教員だったかと思います。何年もの間、自分より年上の生徒を教えていました。奇妙な感覚でしたね。ただ幸運なことに、私の力を信じてくれる仲間たちに出会い、支えてもらいました。

Q 昔から自分に指導者としての才能があると自覚していましたか?

ゴラン いいえ、まったく(笑)。小さい頃は、出された課題をしっかり仕上げようとしたり、ピアノを比較的真面目にやっていた時期もあります。けれども全体的に見て、自分はひどい生徒でした。先生に言われたことをやらないし、自分が何をしたいのかもよく見えていなかった。今でも権威的なものは苦手です。そんな自分が長年学校で教え、そしてそれを楽しんでいるわけですから、不思議なものですね。

Q 演奏活動についてお訊ねしますが、人前で演奏するようになったのはいつごろからですか?

ゴラン 9歳ぐらいからでしょうか。昔は小さな公民館だったり老人ホームのようなところで演奏していました。イスラエル国内でコンクールを受ける直前などは、そういったところで演奏経験をつむことが多かったですね。留学から帰ってきて、イスラエルでピアノを再開してからは小さな仕事がいくつかきました。そんな時期にマキシム・ヴェンゲーロフやシュロモ・ミンツといった人々と知り合い、彼らの後押しもあって演奏活動が本格化しました。

Q アメリカで教えるようになったのと同時期に演奏も行うようになったわけですね?

ゴラン 自然にそうなりました。アップダウンはありましたけれど、自分のピアニストとしての活動を意識するようになったし、自分は音楽家なのだという自覚も生まれてきた。そして音楽家としてのアイデンティティ、ピアニストとしての「自分の声」や「自分の色」を探るようになっていきました。

Q 今回共演するジャニーヌ・ヤンセンは、YouTubeのインタビュー動画で「共演者には個性の強い人が必要だ」という趣旨の話をしていました。

ゴラン それは共演者によりけりですね。ソリストにはいろいろなタイプがいて、相手に望むことも人によって違います。『個性をぶつけ合う』というのは大事な姿勢だと思いますけれど、誰もがそれを望んでいるわけではない。たとえば自分とジャニーヌの場合は互いに主張し合うことでうまくいっているのかもしれません。

Q 多くの一流器楽奏者と共演なさっていますが、歌手との共演はなさらないのですか?

ゴラン 音楽祭などでごくまれに共演することはありますが、残念なことに共演する機会はほとんどありませんね。プロとして活動していると、いずれ何らかのカテゴリーに収められてしまうことが少なくありません。もっぱら器楽奏者と共演するようになるピアニストもいれば、もっぱら歌手と共演するようになるピアニストもいる。私の場合は前者です。でも歌曲のレパートリーはほんとうに豊かで、美しい。天上の音楽とすらいえるような曲がたくさんあります。歌手との共演は今でも望んでいますし、いずれその機会が訪れると嬉しいですね。

Q 現在もパリ音楽院で指導されていますが、演奏と指導、そして詩作などその他の活動とのバランスはとれていると感じますか?

ゴラン どうでしょう。室内楽をやるうえで共演者とのバランスは気にかけますけれど、人生のバランスということは考えません(笑)。確かに執筆はよくしますし、コンスタントに執筆する時期もありました。でも書き物をしていると、気持ちが入りすぎて日常生活に支障をきたしそうになる恐れもある。ですから執筆と演奏を常に両立させられるわけではありません。私は自分がすべきこと、自分があるべき姿というのは意識しません。何かしら方向を定めてそこへ進もうとするときに限ってその反対のことが起きたりするし(笑)。なので自分は綿密な計画を立てずにいくほうが性に合っているようです。

Q たとえば指揮をしたいだとか、他に興味のある活動はありますか?

ゴラン いろいろな願望はありますけれど、それを叶えることは簡単ではない。私には音楽以外にも興味のあることがたくさんあります。直近の演奏会がないときは、音楽の世界から自分を切り離すようにしています。もし夢や希望があるとすれば、それはピアノとは関係のないことになるでしょうね。そうやって切り替えることは重要だと思います。でも逆にコンサートでピアノを弾くこと、そしてピアノを練習することで、自分が正気を保てているように感じるときもあります。あまりにも長くピアノから遠ざかっていると、気がおかしくなってしまうのではと――そういった意味で、音楽は間違いなく私の人生における『救い主』であり、『贖い人』であるといえます。

(文・構成:柴田泰正 写真:藤本史昭 協力:ジャパン・アーツ)

>>ページトップに戻る